末広橋梁

卯太郎の可動橋を四日市港に訪ねる

列車が通らないときは跳開している「末広橋梁」
 陸上交通と水運とが拮抗していた時代、両者を並立させるために、水路・運河を道路が横断する箇所に可動橋が架けられた。その代表的な作品として、本稿では、可動橋として初めて重要文化財になった「末広橋梁」を見に、四日市港を訪れた。

回は、別稿で紹介した増田 淳とともに橋梁コンサルタントの草分けとなった、山本 卯太郎(明治24(1891)〜昭和9(1934)年)について語ろう。山本は名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)を卒業後、米国で橋梁設計の実務を学んだ後、帰朝して大正8(1919)年に「山本工務所」を設立して橋梁設計業務を行った。彼が得意としたのは可動橋の設計で、とりわけ跳開橋の設計について独自の技術を持っていた。というのも、彼は、日本がシカゴのように臨海部の産業を発展させるには、陸上交通と水上交通が互いに機能を果たしあう可動橋が必要だという強い信念を持っており、短時間で開閉できる跳開橋がこれからの時代にふさわしい構造形式だと考えていたからである。その信念を貫くように、彼は、わが国初の跳開式鋼橋となる「隅田川駅跳上橋」1)(東京都荒川区、現存せず)と「正安(しょうあん)橋」2)(大阪市此花区、現存せず)を完成(15年)させたのを手始めに、次々と可動橋を手掛けていくのである。
 可動橋は、土木構造物の要素のほか機械設備の要素も持っており、設計には高い技術力が要求される。山本は、可動橋の経験を積む中で跳開橋のメカニズムを解析し、より経済的な設計法を考案した。可動橋を駆動させる動力を軽減するためにカウンターウエイトを置くことは従来から行われていたが、「山本式鋼索型自動平衡跳上橋」(通常は、簡単に「リンクバランス式」という)では、可動部の橋桁の作用点を特殊な曲線に沿って動かすことにより、橋桁の仰角が変化してもカウンターウエイトと完全につりあわせることができるという。
 このメカニズムについて山本は後述する「福島新橋」の説明の中で「本可動橋は左右に配置された二個の主桁上部に特種連幹各三個を配し、此を主桁に桿着し、他の端に針金撚り線の一端に定着せしめ、各連幹は三個共特種抱絡線を算定して此に接線に設置された物で、可動桁がどんなに仰角に置かれても、常に反動錘と(橋桁の一端にある回転軸の周囲に於て)平衡を保つ装置であるから、昇降用の動力はすべて一定不変である。且つ他の可動橋に比し、橋桁の回転軸と橋台の運転用鋼索との垂直距離は他橋のフツクの半径に比し、約五倍以上あるから約五分一の馬力で、終始一定の動力で運転し得る点は最も合理的であり、また最も経済的に出来てゐる」(「徳島市に架せられた最新式跳上橋」(工事画報社『土木建築工事画報』第6巻第5号、1930年(昭和5年)5月)。山本はこの理論とそれに基づく設計法を「鋼索型跳上橋の一考案」(「土木学会誌」第14巻第6号(昭和3年12月))として発表し、日・英・米・独の4か国で特許を取得した。
 その後、山本はこの技術を用いて「福島新橋」3)(徳島市、現存せず)を架設し、いよいよ昭和6(1931)年に彼の技術の集大成とでもいうべき「末広橋梁」を架設する。末広橋梁とは、四日市市の千歳運河に架かる跳開式可動橋であって、JR四日市駅の構外側線が通る。橋長57.98mの本橋は4.15m、12.90m、16.46m、12.90m、6.70mの5連の桁により構成され、
図1 末広橋梁の位置
中央径間が平素は跳開していて列車が通る時に下ろす形式になっている。幅員は 4.1mで、主塔の高さ: 15.6m、跳開部バランスウェイト24t、跳開部重量: 48tという(土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブスによる)。
 なお、山本は『土木学会誌』や『土木建築工事画報』で理論や臨港都市のあり方などについて積極的に情報発信する一方で、国内の架橋のみならず、海外にも可動橋を輸出している。特に『土木建築工事画報』では、山本が国内外で設計した橋梁の紹介記事が数多く取り上げられていることから、当時最先端の橋梁技術者として評価を受けていたことがわかる。こうした活動の一方で、母校で後進の育成にも努めるなどエネルギッシュに活動した。しかし出張先で倒れ昭和9年に急逝した。
図2 四日市港修築計画を表した図5)、中央付近の紫に着色した部分が埋立地(右が北になっている)(出典:http: //n-craft-s.at.webry.info/201507/
article_16.html)
広橋梁の建設された昭和6年は、四日市港の修築が進んでいた時期と重なる。四日市港は、稲葉 三右衛門(天保8(1837)〜大正3年)が私財を投じて整備(明治17年完成)していたが、さらなる貿易の伸長により、県が国庫補助を受けて修築事業を進めていたのであった。事業は明治43年から昭和3年までの第1期と昭和4年から11年までの第2期に分けて行われ4)、末広橋梁は2期事業で埋め立てられた千歳町と陸側の末広町を隔てる千歳運河に架けられている。その後、四日市港は12年に取扱貨物量161万tを記録するが、それが戦前における最大であって、その後は戦 争による沈滞のために減少していった(戦後は、旧海軍燃料廠跡に大規模な石油化学コンビナートが建設された)。
 
図3 列車が通るときは桁を降下させる
末広橋梁は、前述のような技術的特徴と四日市港の発展への寄与が評価され、また現役唯一の跳開式鉄道橋ということもあいまって、1998(平成10)年に可動橋として初めて国の重要文化財に、21年に近代化産業遺産に、27年に機械遺産に認定された。現在、ここを通る列車は1日5往復程度が設定されていて、三岐鉄道東藤原駅で積み込んだセメントを関西本線を経由して四日市港にある出荷センター運び込んでいる。列車が通る15分ほど前に四日市駅から係員が自転車で来て桁を降下させ、そのまま千歳町にある踏切の操作に行って、帰りの列車が通過した10分ほど後に戻ってきて跳開させる。

(補遺) 臨 港 橋
図4 山本 卯太郎の設計になる初代の臨港橋(出典:渡邊 綱次郎「四日市港修築工事概要」(「土木建築工事画報」第10巻第2号所収))
2期の四日市港修築事業において、千歳運河には鉄道橋である末広橋梁のほか道路橋である「臨港橋」も架けられた(昭和6年)。これも跳開橋であって、設計者は山本 卯太郎である。おもしろいことに、本橋は山本の得意とするリンクバランス式ではなく、可動橋にはよくあるツーリンク式である。
 昭和38年に架け替えられた2代目を経て、現在の臨港橋は3代目。平成3年の架橋だ。四日市港のシンボル的意味あいもあるため、これまでどおり可動橋として架けられた。末広橋梁とは逆に、平素は 桁が降りていて
図5 3代目の臨港橋が跳開している様子(出典:四日市港管理組合のHP)
船が近づくと桁を上げる。そのため、常時 操作員が詰めていて船の接近を監視しているが、近年は橋梁を操作しなければいけないほどの船舶が通ることは少なくなったというのが操作員の弁だ。ということで筆者は臨港橋が跳開するシーンを見ることができなかったので、四日市港管理組合が提供している写真(http://www.yokkaichi-port.or.jp/images/gallery/11.jpg)を転載しておく。操作室が付置された橋脚に桁の支点が固定され、ここに備えた油圧ジャッキでもって桁を押し上げるという。橋面工において、四日市の地場産業である「万古焼」のタイルで歩道を舗装し、橋名板に近隣の中学生の書を用いるなど、地域との関係性を重視したデザインを採用した。
(2018.06.20)


1) 隅田川駅から日本石油隅田川油槽所に鉄道を引き込むために、その間にある運河を横断する橋梁。地盤が海面からさほど高くないため、通常の橋梁ではなく可動橋が計画された。橋長59尺(約17.9m)、幅員15尺(約4.55m)で、可動部の重量は約40t。これに対してカウンターウエイトは約75tであった。


2) 旧北港運河に架けられた可動橋で、付近の開発を行っていた「大阪北港」の費用負担で建設・管理された。当初の橋長は30m。2径間で片側の15mが跳開式になっていた。右の写真は、土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会「鉄の橋百選―近代日本のランドマーク」による。

3) 市の中央部の中洲地区と東岸の福島を結ぶ橋で、港湾機能を維持するため可動橋としたもの。橋長130尺(約39.4m)のうち中央径間35尺(10.6m)が跳開するようになっていた。右下の写真は「四國の徳島市に新跳上橋竣工−一定不變の動力で動く可動橋」(「土木建築工事画報」(第6巻第5号)所収)による。

4) 四日市港の港湾施設が完成した昭和11年に、記念事業として「国産振興四日市大博覧会」が開催され、
50日の会期中に約124万人を集客した。

5) 図で赤く描かれている「伊勢鉄道」は現在の近鉄名古屋線に相当するもの。昭和31年に海山道(みやまど)と川原町を滑らかに結ぶ線形に変更して、もとの諏訪駅付近に近鉄四日市駅を設けている。