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都鉄道を語るのに田中 源太郎(嘉永6 (1853) 〜大正11 (1922)年)をはずすことはできない。田中は亀山藩の会計方として仕えていた商家に生まれ、早くから経済界で活躍することが期待されていた。彼がかかわった事業は、
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図1 田中 源太郎の京都鉄道創業を顕彰する碑、亀岡駅にある |
「亀岡銀行」(後に「京都銀行」になる)、「京都株式取引所」(後に「京都証券取引所」になる)、京都電燈など数知れない。その彼が有志と諮って設立したのが京都鉄道であった。
京都〜宮津間の鉄道については早くから必要性が認識され、明治20(1887)年に出願した「関西鉄道」の路線に含まれていた。しかし、この時は免許を得ることはできず、それがために沿線では鉄道誘致運動がいっそう盛り上がっていた。人々の熱意に応えて、26年、田中は有志150名と諮って京都〜綾部〜舞鶴〜宮津間の本線と綾部〜福知山〜和田山間の支線、合せて165kmの鉄道免許を申請したのである。28年、政府は福知山までの免許を下付し、資本金510万円で京都鉄道が正式に設立された。準備期間を経て29年4月に京都方から建設を開始し、30年2月に二条1)〜嵯峨間6.1km、4月に二条〜大宮(現存せず)間3.1km、11月に大宮〜京都間0.8kmが開通した。
同社の工事は嵯峨〜亀岡間で難航を極めた。深い峡谷がえぐる保津川の激流に沿った断崖を抉り、水面から40フィート(約12m)のところに1/100勾配で線路を敷くのである。この区間のトンネルは8本、橋梁は51橋を数えた。28年に遊覧船による川下りが始まっていたので、京都府はこの地の風光を壊すような工事を許さず、護岸の石垣や法面の伐採に細かい条件をつけたほか、工法においても土砂を川に流してはならない等の制約を加えた。
折からの鉄道ブームで資材が高騰し、会社は工事費の増嵩を抑えるため、近隣からの資材調達を考えた。石材は鹿谷2)を供給地とし、現場まで工事用軌道を敷設して輸送の簡便を図った。レンガは亀岡城内に直営の工場を設けて自給し、砂利は宇津根橋付近で採取してそれぞれ工事用軌道で運んだ。枕木も北桑田郡の山から運搬した。域外から調達するセメント、鉄材、レール等は、桂川を利用して嵐山の3km上流に設けた桟橋まで送り、
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図2 保津峡に沿って走る京都鉄道(鹿島建設提供) |
ここから現場まで工事用軌道で搬入した。
こうして、着工から4年を費やして32年8月に京都〜園部間35.2kmの開通を見た。営業としては、収入21.2万円に対して費用が7.7万円(33年度)であり、成功と言えよう。しかし、多額に上った嵯峨〜亀岡間の工事費はこたえた。払込済資本金のほとんどを費消し尽しており、園部以西への延伸は見合わせざるを得なくなってしまった。しかし、日露戦争(37〜38年)を目前に予感していた政府は、軍港のある舞鶴に連絡する鉄道を求めていたのである。京都鉄道の未成部分の免許を取消し、舞鶴までの鉄道は自ら建設することとした。これで京都鉄道はさらなる発展の芽を失った。
日露戦争は日本の勝利に終わったが、この経験から、政府は鉄道が民間に分割所有されていることが非常な不利であることを悟った。そこで、39年に「鉄道国有法」を制定し、全国の幹線鉄道の買収を進めることとした。京都鉄道も買収対象になった。法に定められた方式で計算したのでは買収価格が建設費を償わないとして、会社は特例を陳情したものの聞き入れられず、40年8月に田中は資産と従業員の一切を国に引き継ぎ、京都鉄道は解散した。京都鉄道の区間は45年に「山陰本線」に編入され、山陰方面への幹線鉄道としての役割を果たしていく。
れから65年の歳月が流れる。改良の遅れていた山陰本線の輸送力増強を計画していた国鉄は、京都〜綾部間の電化と京都〜園部間の複線化を決定し(昭和54(1979)年)、その取り掛かりとして、保津川に沿って大きく迂回して厳しい速度制限のついていた嵯峨〜馬堀間について新線への切り替え工事に着手した。新線は、130km/時での営業運転に対応した線形で、小倉山トンネル(L=1450.4m)始め6本のトンネル、第2保津川橋(L=259.4m)始め5本の橋梁で、蛇行する保津川を串刺しにする形で貫く。京都鉄道と同様、この工事でも現場に大型車両が進入できなかったために、当時わが国最大と言われた大型ロープウェイで資材を搬入した(保津峡駅に説明板がある)。国鉄の分割民営化(62年)をまたいで工事は継続され、平成元(1989)年3月に新線が供用。京都鉄道が建設した旧線は、
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図3 保津川の激流を見下ろして走る嵯峨野観光鉄道 |
建設から90年後に廃線ということになった。
ところが、廃線になった旧線に再び陽があたることになる。この廃線を観光資源として活かすことはできないかとの京都府の打診から、トロッコ列車の検討がJRの社内で始められたのだ。第2種鉄道事業免許を受け「嵯峨野観光鉄道」が会社として発足したのは翌年9月。3年たって芽が出なければ撤退という背水の陣のもとでの出発だった。それから半年、長谷川 一彦3)社長が先頭に立って8人の社員が総出で5mにも茂った草を引き腐食した枕木を補修しレールのさびを掻き落とすなどして、ひたすら開業を目指した。そして迎えた開業日。初年度の乗客は当初の予想26万人(実はそれも危ないと思われていた)をはるかに超える69万人という盛況だった。
その後も嵯峨野観光鉄道は年々乗客を増やし順調な経営を続けている。この要因としては、まず奇岩を食む激流が続く保津川の景観を挙げるべきだろうが、社員の"おもてなし"の心あふれる接客、鉄道ジオラマ館などの積極的な投資、沿線との協働などの会社の努力も大きいと思われる。そしてこれらに加えて、吟味された鉄道構造物が今も立派に役割を果たしていることを忘れてはならない。以下、会社の案内に従って主な構造物を嵯峨方から見ていこう。
初は、トロッコ嵐山駅に隣接する「亀山トンネル」(L=220.9m)である。景勝嵐山に面することからの配慮であろうか、他のトンネルでは坑門の煉瓦がすべて強度に優れるとされる「イギリス積み」であるのに、
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@亀山トンネル A保津川橋りょう B清滝トンネル C鵜飼 第一トンネル D鵜飼第二トンネル
E朝日トンネル F地蔵 第一トンネル G地蔵第二トンネル |
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図4 嵯峨野観光鉄道の路線と主な構造物 |
ここだけが美観に優れるとされる「フランス積み」だ。壁柱(ピラスター)や帯石を有する本格的な作りである。
これを抜けて保津川の渓流を左に見ながら進むと、やがて大きく左にカーブして「保津川橋りょう」(L=85.34m)で保津川を渡る。当時の長大橋の標準的な設計は200ft(約61m)であったが、保津川の"暴れ川"ぶりを熟知していた田中は河川に橋脚を建てることを許さず、280 ftの曲弦プラットトラス
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図5 初代の保津川橋りょう(左、出典:土木学会戦前土木絵葉書ライブラリhttp://library.jsce.or.jp/Image_DB/card/01_image_thum26_2.html)と現在の向野橋(右、中央付近の垂直材を補修している) |
をアメリカのエーアンドピーロバーツ(A.&P. Roberts)から輸入した。
現在の橋(標題の写真)は昭和2年5月に架けかえられた2代目。架け替えに至った裏には、歴史の皮肉というべきエピソードがある。大正11(1922)年4月3日午後5時36分に亀岡駅を発車した第110列車(機関車1両、貨車9両、客車7両)が保津川橋りょう渡っていたところ、4両目の貨車が突然脱線したはずみで客車も脱線したまま橋梁を暴走し、車両が2つに割れて車掌と乗客2名が振り落されて保津川に墜落した(大正11年4月4日付け大阪朝日新聞)。そのうちの1名がなんと田中だったのだ。破損したトラスは応急修理されたが、これを機により設計荷重の大きい橋梁が設計され6年後に架け替えられたのである。なお、撤去された初代の橋は名古屋に送られ、笹島貨物駅付近で関西本線を横断する道路橋「向野橋」(こうやばし)になっている(平成28年度土木学会選奨土木遺産)。事故の際に生じた損傷をあて板で補修した状態で使われている。
さて、列車は保津川橋りょうを渡るとすぐに「清滝トンネル」(L=468.0m)に入る。こちらは亀山トンネルほど装飾性が高くないが、帯石部分に近衛篤麿による「清滝」の額がはめ込まれている。迫石に石材が用いられていることが特徴である。出口付近での落石防止のために坑口が27.5m延伸(昭和32年)されておりこれを抜けるとトロッコ保津峡駅だ。
この先、いくつかトンネルがあるが、最長のものは「朝日トンネル」(L=499.1m)だ。入口側坑門の胸壁(パラペット)には煉瓦を45゚傾けて積む珍しい「矢筈積み」が採用され、「朝日隧道東口」のレリーフがはめ込まれている。
以上、概観してきたように、京都鉄道が建設した構造物はそれぞれに設計上の検討が加えられていることがわかる。会社がこの事業に取り組んだ大いなる意気込みを表すのであろう。そして到着するのはトロッコ亀岡駅。嵯峨野観光鉄道の開業当初は簡単なホームがあるだけだったが、利用者の増加により今では案内所や飲食店舗が入った駅舎になった。駅前から保津川下りの乗船場へのアクセスバスが出るほか、観光レンタサイクルのターミナルも併設されており、亀岡市の新たな観光拠点となっている。。 |
図5 嵯峨野観光鉄道の主な構造物、トロッコ嵐山駅に隣接する亀山トンネル(左)、近衛篤麿揮毫の額がはめ込まれた清滝トンネル(中)、矢筈積みの胸壁とレリーフが設けられた朝日トンネル(右)、いずれも保津川の景勝を考慮したデザインが施され重厚な印象を与える(嵯峨野観光鉄道提供) |
(謝辞) 本稿の作成に当たり嵯峨野観光鉄道からご教示をいただいた。
(参考文献)
1. 日本国有鉄道「日本国有鉄道百年史」
2. 西田哲郎「私達の心の故郷「京都鉄道」に思いをはせて」(「日本鉄道施設協会誌」2017年5月号所収)
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(2018.02.06)
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1) 二条駅はしばらく仮建築であったが、37年に本社を兼ねた駅舎を建てた。これは、二条城に近いことを考慮して、田中の意向により荘厳な寺社をイメージした入母屋造りであった。高架複線化工事により平成9(1997)年に「梅小路蒸気機関車館」に移築され、現在は「京都鉄道博物館」の資料展示室になっている。
2) 亀岡市稗田野町鹿谷(ろくや)のことと思われる。
3) 長谷川氏は、嵯峨野観光鉄道の開業に人並みはずれた努力をつぎ込んだことに加えて、社員とともに笑顔の接客を徹底したこと、景観のよいところで停車するなどのサービスを創始したこと、"桜守"として著名な佐野
藤右衛門氏の協力を得て沿線の植樹を進めたことなど、魅力ある観光資源を創出したことが評価され、観光庁の「観光カリスマ百選」に選定されている(http://
www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/jinzai/charisma/mr_hasegawa.html)。
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