古式水道1)が生きる町のまちおし(高島市勝野地区)

「町割り水路」の流れる高島市勝野地区
 比良山麓の湖西地方は水に恵まれたところだが、中でもJR近江高島駅に近い勝野地区は、街路の中央に水路を配した「町割り水路」で有名だ。これを含めて、江戸時代初期に作られた水道システムが、この町では住民の共同により今も生きている。水道システムを維持してきた住民の力が息づく町の現状をレポートしよう。

図1 大溝城の計画
琶湖の支配を完結しようとする織田 信長は、安土・長浜・坂本に加えて大溝にも築城を企て、天正6(1578)年に甥にあたる織田 信澄(のぶすみ)に命じて城郭を整備させた。大溝は、比良山系が琵琶湖にせり出す明神崎の付け根にあって良港に恵まれるとともに、古来からこの地に通じている北陸道を辿れば高島平野への入口に当たる要所であった。大溝城は、砂州により琵琶湖と隔てられた「乙女ヶ池」2)に沿って建てられ、これを天然の外堀として巧みに利しているが、この縄張り(レイアウト設計)は明智 光秀によるものとされる。
 信澄は、城の北西の勝野地区に武家屋敷を配置するとともに新庄・今市(いずれも新旭町)・南市(安曇川町)から商人・職人や寺院を移転させて城下町とした。乙女ヶ池の東側の砂州に展開する打下(うちおろし)地区には、平時は漁労や舟運に携わり戦時には水軍に転換する集団を住まわせた。しかし、信澄は本能寺の変のあと大坂城で自害し、その後は豊臣 秀吉のもとで頻繁に城主が交代したあげく、「一国一城令」により天守が取り壊されてしまう。
の後、元和5(1619)年に大溝藩主として分部(わけべ) 光信が入封し、以後、廃藩置県までの約250年間は分部家が城主を務めた。光信は、大溝藩が2万石という小藩であったことから、天守を再建せず三の丸址に自らの陣屋を置いた。
図2 大溝の水道施設の概要
図3 日吉山山水組合の現在の取水施設 図4 榊集会所付近にある立ち上げ、この位置は江戸時代の図面にも「水源」と表示されている
陣屋は居宅であると同時に政庁でもあって、周囲に石垣・土塁と内濠を巡らせて自警し(内堀の中を「郭内」と呼んだ)、その外側には外堀によって囲まれた武家屋敷を配置(外堀の中を「惣郭」または「曲輪(くるわ)」と呼んだ)した。惣郭は東西4町余(約440m)、南北2町余の地域を占め、総門・西ノ門・南門・会所門という4つの門からしか出入りできない形にして、町屋とは厳然と区別された。惣郭には、縦の通りとして東西に(天守を東に臨むので東西の通りが縦になる)北町・中町・南町の3本、横の通りとして東町の道筋が設けられた。各武家の屋敷については、明治維新の廃藩によって家臣のほとんどが大溝を離れたために遺構をとどめないが、わずかに一部を残す笠井家は、家人らが出入りする土間とは別に玄関を設けて式台を置き、これに続く座敷や客用便所の縁側は広い庭に面していた。周囲を樹木で囲っていたこともわかる。
 陣屋を含む惣郭には、飲用を含む生活用水として、西方の日吉山から山水が引かれた。これは今も生きている。2系統あるうち「日吉山山水組合」について現在の設備を見ると、まず水源は図3のようなもので、奥から流れる渓流の水をネットで覆った井戸に落し、ここから地下に埋設した管で市街地まで送っている。送られた水は、榊集会所付近にある「立ち上げ」(または「立ち上がり」)と呼ばれる分水施設(図4)で4つの「組」に分配される。サイホンの原理で大水槽に注がれた水が4つの小水槽に移されるのであるが、大水槽と小水槽をつなぐ管の本数は各組がもつ「口数」と一致しているという。小水槽からは道路の下を通る埋設管でそれぞれの組の近くまで送られ、そこで再び「立ち上げ」を設けて(図5はその一例)分水して最終的には組の各戸に給水している。
図5 受けた水を組の各戸に分配する立ち上げの例
現在は飲用には適さないが、雑用水や池泉水として利用されている。なお、組合の給水に係る費用は、榊集会所付近の立ち上げより上流は全戸で、それより下流はそれぞれの組を構成する戸が口数に応じて負担しているそうである。
信は陣屋及び武家屋敷の整備と併せて城下町の建設にも力を注いだ。山裾を走っていた北国街道を大溝湊を通るように付け替え、これに並行する3本の通りと合せて南北に4本の通りを設けた。ここで特徴的なのは、これらの通りの中央に幅、深さとも約1mの「町割り水路」が流れていることである(標題の写真)。図2に描かれた3本は現存するが、かつては本町通りにもあった。水路の岸は石垣という丈夫な作りである。
 もともと琵琶湖西岸では、比良山麓に源を持つ清冽な被圧地下水が湧出することが多く、これを生水(しょうず)あるいは清水(しょうず)と呼んで、生活のさまざまな場面で活用されていた。大溝でも城下の西方に発する豊かな湧水を処理する水路がたくさんあったのだが、城下の整備とともに4本の町割り水路に整理したのである。この水は飲用などの生活用水として使われた。従って、町屋の各戸は汲上井戸を持たない(城下町は小田川の三角州にあるので直下の地下水は鉄分を含んで使用しづらい)。なお、光信は城下の防火に配意していた3)らしく、火災の際には水路の合流部に設けた堰を操作して、当該部に水を集める措置がなされたという。なお、
図6 かつての町屋の地域に給水している現在の元井戸
下水は町並みの裏を流れる小さな川を通じて背戸川に集め、琵琶湖に放流した。
 その後、おそらく町の発展に伴って水量・水質の需要が高まったのであろう、数件から十数軒が「井戸仲間」となって、共同して生水の湧水地に元井戸を掘ってそこから地下に埋設した管路で引水することが始まった。「高島町史」によると、天保元(1830)年が最初という。このような井戸仲間がたくさんできて(井戸仲間は18、それを構成する戸数は95戸(平成8年の調査による))、元井戸の集中する地域と城下との間の田圃は地下に竹樋が錯綜する状態になったそうだ。
図7 陣屋跡で発掘された古式水道、竹樋は穴を穿った木材(「枕」という)で連結されている(出典:高島町史編さん委員会「図説 高島町の歴史」)
 この状況が変化したのは昭和60年に行われた小田川の改修工事の時で、改修により地下水位の低下が避けられない事態に、これらの井戸を統合して地下30mからポンプで揚水することとし、井戸仲間を4つの「吐出槽組」に集約して配水することとなったのだ。従前は無料の湧水を使用していたので井戸仲間の負担は少なかったが、ポンプを使うようになってその電気代を分担する必要が生じた。各戸にメーターを設置し、使用水量に応じて負担する仕組みを整えている。
記のような変化があったとは言え、大溝では近世の古式水道のシステムが今も生きている。大溝藩が2万石という小藩であったことに所
図8 町割り水路に沿って巡行する大溝祭の曳山
以するのかも知れないが、大溝では町屋はもとより惣郭の武家屋敷への給水も、受水者の共同の負担により水道システムが維持された。明治の廃藩によって武家の多くが大溝を離れてもこれが連綿と受け継がれている。
 水道の運営に係る共同体の自主的な維持管理が地域の結びつきを強めていることは、多くの識者が指摘しているところだ。江戸時代中期にまで遡るとされる曳山行事「大溝祭」はそのひとつの証である。
 大溝がかつて有していた中枢性が低下する方向にある中で、平成5(1993)年、空き家などを活用した「高島びれっじ」を住民の有志が立ち上げた。蝋燭町にある「びれっじ1号館」は築180年の商家を利用してキャンドル工房を、「びれっじ2号館」は築250年の醤油業の商家(登録有形文化財)を改装してベーカリーや食事処などを営業しているという具合で、現在は8号館までできている。
図9 「高島びれっじ」の草分け「びれっじ1号館」
個性的な店舗が増えて商店街の活性化や観光客の誘致に成果を挙げている。
 なお、古式水道が残る町並みや乙女が池・打下集落の景観が水を巧みに利用して生活や生業を営むことによって形成されたとして、平成27年、文化庁により「重要文化的景観」に指定されている。大溝陣屋の総門には「大溝の水辺景観まちづくり協議会」があって、ガイドツアーを行うなどして水辺を活かしたまちづくりを紹介している。
 
(参考文献) 渡辺 大記「高島町勝野の古式水道−引水のしくみと共同利用の形態−」(滋賀県立大学人間文化学部「人間文化」15号所収)
 (2017.12.28)

1) 水源地からの自然流下により配水する水道を近代水道と区別して呼ぶ名。


2) 「乙女が池」というのは昭和初期にここで淡水真珠の養殖が試みられたころについた名前で、古代には「香取の海」と呼ばれ(「万葉集」にも詠まれている)、その後は「洞海(どうかい)」と称されていた。水田で灌漑に使用された水が流れ込むことから、マツモやマコモなどの水生植物が生育し、畑の肥料や家畜の餌として利用された。

3) 木材部分への延焼を防ぐため、各戸の両側面の壁、庇の垂木・破風(はふ)は、土や漆喰で塗りこめる「塗屋」とすることが義務付けられた。