石碑が見守る土砂災害への備え

阪神大水害を受けた住吉川沿川

六甲山へのハイキングコースから見る五助堰堤
 関東大震災(大正12(1923)年)の難を逃れて関西に移り住んだ谷崎潤一郎は、水を得た魚のように次々と佳作を発表する。中でも「細雪」は、大阪商人の絢爛な暮らしがはかなくも崩れていくのを哀惜をもって描いた傑作であるが、当時の関西で実際に生起したことが克明に写し込まれ、歴史資料としても貴重である。本稿では、そこに扱われた「阪神大水害」(昭和13(1938)年)の被害を振り返るとともに、その後の復興と防災事業についてレポートする。

崎 潤一郎の代表作「細雪」は、船場生まれの4姉妹の物語だ。阪神大水害の当日、次女の幸子とその夫の貞之助、娘の悦子と4女の妙子は芦屋に住んでいた。朝7時頃には悦子が「雨の身拵えだけは十分にしたことだけれども、大して気にも留めないで土砂降りの中を学校へ出かけて行」き、妙子も「オイルシルクの雨外套を着、護謨靴を穿いて」本山の洋裁学校に出かけて行ったが、その後、けたたましいサイレンの音が鳴り響き、心配した女中のお春が様子を見に行くとすぐ近くまで水が「滔々たる勢いで流れて」いて自警団から制止されたという。驚いた貞之助が、急いで悦子を学校から連れ戻すとともに、妙子の安否を求めて、「真っ白な波頭を立てた怒涛が飛沫を上げながら」「沸々と煮えくり返る湯のように見える」中に鉄道線路が「地盤の土が洗い去られて、枕木とレールだけが梯子のように浮かび上がって」いるところを迎えに行くという筋書きである。なお、谷崎は11年から住吉川に沿った「倚松庵1)」に住んでいたから阪神大水害を経験したと思っていたが、実際には自身は安全なところにいて危険を感じなかったそうだ。
それでこれだけ迫真の描写ができるのだから文豪の筆の力はたいしたものである。
和13年は、日本列島の南岸に停滞する梅雨前線が太平洋を北上してくる熱帯低気圧に刺激されて、6月から7月にかけて各地に大雨を降らせた。阪神地区では、暖湿な気流が六甲山地に吹き付けて、7月3日から5日にかけての3日間に総雨量457mmという記録的な豪雨に見舞われた。特に雨が集中したのは5日の朝で、豪雨のために山崩れが多発し、500万m3の土砂が雨水とともに市街地に流出したという。5日には大阪湾の潮位が6〜7cm高くなっていたことが観測されており、海面を上昇させるほど大量の水と土砂が流れ込んだのだと考えられている。
 阪神
図1 阪神大水害における住吉川の惨状、(A)住吉川支流(大月谷)の山腹浸食、(B)激しく流れる扇部の住吉川、(C)巨石に押しつぶされた住吉橋、(D)摂津本山〜住吉間の軌道路盤流出(出典:近畿地方建設局六甲砂防事務所http://www.kkr.mlit.go.jp/
rokko/disaster/history/s13/sumiyoshi.php及びhttp://www.kkr.mlit.go.jp/rokko/disaster/history/s13/photo.php)
大水害は、神戸市の人口の72.2%、市街地家屋の72.1%が被災するという大災害であったが、とりわけ住吉川の惨状は図1のようであって、谷崎の叙述が決して誇張ではなかったことがわかる。これほどの被害になった最大の要因は、
図2 住吉川とその近くの断層
住吉川上流の六甲山地が崩れやすい花崗岩であることだ。しかも、そこには五助橋断層2)や大月断層3)などの大きな活断層が走っており、それが上下に動くだけでなく横にもずれたので(これを「横ずれ断層」という)、断層に沿って川が流れるようになって(図2で「五助橋断層」の文字のある付近の住吉川・西滝ケ谷や五助堰堤に合流する手前の五助谷がこれに相当する)、破砕されたところを盛んに侵食するのである。加えて、六甲山の南麓は30度を超える急傾斜地が約55%もある上に、市街地が山地まで広がっていることなども要因として挙げられよう。
 これらはいわば阪神間の宿命のようなもので、戦後にも、「宅地造成等規制法(昭和36年法律第191号)4)」制定のきっかけとなった36年水害、
図3 横ずれ断層が生じた場合の河道の変化
「急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律(昭和44年法律第57号)5)」制定のきっかけとなった42年水害(以上を「六甲三大水害」という)を経験している。
神大水害の大きな被害に鑑み、雨が降った時に土砂が流出するのを抑制する砂防事業をより強力に進める必要があることから、これまで県が行ってきた事業を国の直轄で行うこととして、13年9月に六甲砂防事務所が開設された。砂防事業には、@荒れた山腹に植林するなどして土砂の流出を低減する山腹工、A河川を流下する土砂を受け止める堰堤工、B川岸ガ浸食されるのを保護する護岸工などがあるが、
図4 昭和42年水害前(左)後(右)の五助堰堤(出典:近畿地方建設局六甲砂防事務所http://www.kkr.mlit.go.jp/rokko/disaster/
measure/facility.php)
直轄化されて特に進んだのは砂防堰堤の整備だった。
 現在では住吉川上流に約530基の堰堤があるが、その中でも最大のものが27年に着工し32年に完成した五助堰堤だ。五助谷が住吉川に合流し五助橋断層の露頭が現れているところにある。重力式コンクリート造の本堰堤と副堰堤からなり、本堰堤は高さ30m、幅78m。完成から10年間はさして土砂がたまらす効果が実感できなかったが、42年の豪雨で発生した土石流12万m3を受け止めて一夜にして今の姿となった6)
 五助堰堤は、住吉から六甲山頂に向かうハイキングコースの途中にあり、多くの人が訪れる。六甲砂防事務所が現地に設置した案内板に、六甲山で起こった土砂災害や砂防事業の効果などが掲示してあって、市民の学習に供している。また、ハイキングコース入口の落合橋付近に建つ「水災紀念」碑は、台座に洪水の高さを刻んでいる。
のほか、住吉川の沿川には阪神大水害の被災を記録する碑がいくつか置かれている。ひとつは、「住吉学園」構内にある「禍福無門」(内務大臣 末次 信正(当時)の揮毫)の碑。住吉川から流出した巨石を堆積した高さ(約3m)に積み上げて碑としているもので、当時の住吉村が建てた。石の重量は約30t。「禍福無門」とは、禍福は決まったところから来るわけではないので常に心を配って過ごせ、という意味らしい。
 対岸の野寄公園の中にも、本山村(当時)が建てた「有備無患」の碑がある。これも末次が揮毫した。死者11名、流出・半壊家屋700棟余、埋没・浸水家屋1,500棟余という大きな犠牲を村に与えた自然の力を記した後、皆で努力した結果1年余りで復興できたと語って「人力亦不可蔑如也(人の力もまたさげすむべからざるものなり)」と述べているのが印象的だ。
 再び右岸側に戻って、甲南小学校には、学園の創設者のひとりで文部大臣も務めた平生 釟三郎が校舎再建に際して贈った「常ニ備ヘヨ」という言葉を刻んだ碑がある。甲南小学校では、9時頃に授業を中止して児童を講堂に集めたところを突発的な濁水に見舞われ、4名の児童と付添いの職員が命を失った。水害から5年後、
図5 阪神大水害の教訓を伝える石碑、(A)「水災紀念」碑、(B)「禍福無門」碑、(C)「有備無患」碑、(D)「常ニ備ヘヨ」、(E)「水災復興記念」碑
「堅牢ナル校舎ヲ再築茲ニ復興記念ノ碑ヲ建テ将来ノ萬全ヲ期ス」もので、学校を襲った流石を使用し建立された。
 阪神電車青木(おおぎ)駅の北にある春日神社の境内にも、水害で流されて来た巨石を利用して作られた「水災復興記念」碑がある。西青木地区でも500余戸が水禍を受けるなど被害は大きかったが、諸団体の奉仕と住民一致した勤労により早期に復興できたと記している。
成17(1995)年1月17日の阪神・淡路大震災でも、住吉川では住宅地のすぐ近くで大規模な山腹崩壊が起こるなどの被害を受けた。その後、土砂災害が市街地に及ぶのを未然に防ぎつつ良好な環境を形成するのを目的に、六甲山系の南斜面を一連の樹林帯として育てる「六甲山系グリーンベルト整備事業」が開始された。特に積極的な取り組みが求められる斜面については、砂防施設であると同時に「緑地保全地区」として都市計画決定され、無秩序は市街化の防止も図っている。既存の樹林を痛めない山腹工を導入するとともに、ニセアカシアを中心とする山林をコナラやアベマキなどの樹林地に転換していく方針だ。小学生が拾ったドングリを卒業記念に植樹する「どんぐり育成プログラム」や、登録団体が「森の世話人」になって森づくりを進める活動など、市民を交えた取り組みが進んでいる。
 このように砂防事業は進んでいるが、災害を防ぐ最後の砦は、緊迫した事態が発生したときの市民一人ひとりの的確な防災行動だ。阪神大水害の経験を受けて建てられた石碑が、災害に対する警戒を怠らないように市民を見守り続けて80年。石碑が諭すところは今も新鮮だ。
(2017.11.20)

1) 椅松庵とは、昭和7年ごろから谷崎が用い始めた雅号である。谷崎は、関東大震災の後、西宮市から東灘区の範囲で頻繁に転居を繰り返しているが、そのうちでも昭和11年11月から18年11月までの7年間を松子夫人やその妹たちと居住した住吉村反高林の住居が椅松庵と呼ばれる。六甲ライナーの建設に伴って、平成2(1990)年に東灘区住吉東町1丁目6番50号の現在地に復元移設された。

2) 宝塚市売布(めふ)付近で有馬高槻構造線から別れて南西に神戸大学付近まで走る断層で、南北の高度差は300〜400mに達している。地層に含まれたメタセコイヤの化石から、動き始めたのは約100万年前と推定される。右の写真は、花崗岩が圧砕され縞状の粘土に変化したもの(出典:前田保夫「六甲の断層を探る」(神戸市立教育研究所))。また、断層の変位速度は、右横ずれ1〜4m/千年、縦ずれ0.26〜0.32m/千年と、横ずれが大きいことが推定されている(丸山 正ほか「六甲山地東部五助橋断層帯の変位地形と第四紀後期の活動性」(「活断層研究」No.16所収))。

3) 昭和43年に鶴甲団地の造成で見つかった断層で、五助橋断層の北に並行している。なお、42年に山陽新幹線六甲トンネルの工事に際して多量の湧水があったのは、この断層によるものと考えられている。

4) 宅地造成に伴い災害が生ずるおそれが大きい市街地として定めた「宅地造成工事規制区域」ニおいて、一定規模以上の切土・盛土や宅地造成を行うときは知事の許可を要すること等の規制を行う法。

5) 急傾斜地の崩壊を助長または誘発するおそれのある行為を制限する必要がある急傾斜地を「急傾斜地崩壊危険区域」として指定し、このような行為を規制する法。

6) 六甲砂防事務所では、
昭和13年 昭和42年
時間最大雨量 60.8mm 75.8mm
流出土砂量 502万m3 229万m3
被害家屋 119,895戸 59,594戸
死者・行方不明者 695人 98人
昭和13年の水害に比べて42年の方が降雨が激しかったにもかかわらず土砂流出量が少なく被害家屋数、死者・行方不明者数が大幅に少なかったのは、その間の砂防事業が効果を発揮したからだと説明している。