中之島S字橋

曲線橋黎明期の技術者の努力

上空から見た中之島S字橋、ビルの谷間を縫って大胆な曲線を描く
 昭和39(1964)年11月12日、阪神高速道路の出入橋〜土佐堀間が開通し、6月28日に開通していた土佐堀〜湊町間と併せてキタとミナミの都心を結ぶ路線が供用されることになった。37年10月29日の起工式からほぼ2年後のことだった。出入橋〜土佐堀間がやや遅れたのは、ここに建設された「中之島S字橋」と呼ばれる特殊な3径間連続箱桁橋が難工事だったからだ。本稿では、設計業務を中心に、本橋に注がれた技術者の努力をご紹介する。

大阪は淀川・大和川の河口部に開けた都市で、江戸時代には「浪華八百八橋」と呼ばれるほど多くの橋があった。近代に入っても、市電の敷設や都市計画事業が精力的に行われ、構造だけでなく意匠にも工夫を凝らした風格ある橋がいくつも架けられた。そのうち淀屋橋ほか4橋が「大川・中之島の橋梁群」として平成12(2000)年度にいち早く土木学会選奨土木遺産に選定されたのを始め(このうち淀屋橋と大江橋は20年度に国の重要文化財になっている)、これまでに本町橋(21年度)、浜中津橋(24年度)、緑地西橋(25年度)、平野橋(令和元(2019)年度)が選奨されている。
 本稿では、大阪に蓄積された橋梁技術が、戦後の急激なモータリゼーションの中で大いに発揮された事例として、
図1 戦後の国民総生産と大阪市の自動車登録台数の伸び
阪神高速道路の中之島S字橋をとりあげよう。
後のわが国の経済発展は目覚ましかった。経済活動の興隆はそのままモータリゼーションの進展として現れ、大都市での交通渋滞が急速に深刻化した。これを放置すれば都市機能の著しい減退が生ずることが強く懸念され、立体交差を連続させた自動車専用道路網を形成することにより、これを早急に解決することが案出された。東京において昭和34(1959)年に首都高速道路が計画されたのに続いて37年に大阪・神戸地区において阪神高速道路が計画され、それぞれそれを専門に行う機関として首都高速道路公団、阪神高速道路公団が設置されて、鋭意 建設が進められた。
 大阪地区における阪神高速道路の特徴は、早期の完成を図るため、市内に張り巡らされた河川・水路空間を可能な限り活用してそこに高架道路を導入したことである。
図2 戦前の中之島付近の河川・水路(昭和7年部分修正測図の国土地理院旧版地図、河川・水路の着色と記名及び阪神高速道路の線形(○)は筆者)
本稿で紹介する中之島S字橋もまさしくそのようにして生まれたのであった。すなわち、本橋は大阪空港に伸びる11号池田線が西横堀川に計画された1号環状線から分岐し、西折して土佐堀川に入りすぐに北折して朝日新聞社用地に向かう。件の朝日新聞社用地は、もともと水路であったところを埋めて大阪市の所有になっていたのを、同社が社屋を拡張するに際して、阪神高速道路を通すことを条件として市から購入したもの。そして、同社用地をビルと一体構造で抜けた高速道路は、堂島川で西折し次いで北折して梅田堀川1)へと進んでいく。また、本橋が架設される箇所には、街路(路面電車が走っていた)、河川(船舶が航行していた)、防潮堤、既設橋などの支障物件があり、同時期に地下鉄の工事も進行していた。従って、橋脚位置は厳しい制約を受けざるを得なかった。
 上記のような導入空間の制約から、本橋は橋長192.8m(60.4m+72.0m+60.4m)の中でR=84mの曲線が相反する線形となっている。
図3 中之島S字橋の線形
これほどの厳しい曲線橋は、当時のわが国はもとより世界にも例を見ない特殊なものであった。
きたばかりの公団では、早急に技術的なよりどころを整備する必要があった。そこで、技術的な重要事項について学識経験者の指導を得べく、9月に「阪神高速道路公団技術審議会」(会長:小西 一郎 京都大学教授(当時))を設置した。そして初期の審議会のかなりの時間が本橋の設計・施工に係る検討に充てられた。
 当時の曲線桁理論は、@曲線桁を幅を持たない1本の棒のようなものとみなす単純なものと、A曲げねじり理論を応用して断面力2)を精緻に求めるものに大別された。が、本橋のように厳しい曲線を有する桁に荷重が作用する場合、桁を外側に転倒させようとする力(ねじりモーメント)を正当に評価することがきわめて重要であるとして、特別な研究チームが編成された。その中心になったのは、審議会委員であった小松 定夫 大阪市立大学助教授(当時)であった。
小松助教授は、35年の土木学会年次学術講演会で「曲線箱桁橋の立体的応力解析」3)を論ずるなど、曲げねじり理論の分野での新進気鋭の研究者として頭角を現していた。
図4 複雑な式が並ぶ小松助教授の論文
しかし、この理論は難解であるばかりか極めて煩雑な計算を要するものであった。当時の計算技術では、加減乗除は手回し式の計算機があったが、三角関数や指数・対数には数表や計算尺を用いるのが一般的であったので、曲線桁に作用する複雑な曲げやねじれの解析には多大な労力を要したのである。
 そこで、本橋で取られた方法は次のようなものだった。まず、連続桁における断面力を円曲線と直線の場合について理論に基づいて公式化しておく。次いで、本橋の主桁構造を両側径間は円曲線、中央径間は円曲線と直線から構成されるとすると、2つの中間支点(図3の2 、4 )上の曲げモーメントと曲げねじりモーメント及び直線部分との接合点(3 )の曲げモーメント、曲げねじりモーメント、鉛直変位量、回転変位量の合せて8つの不静定量(力のつりあいだけでは決まらない量)が存在する。これらの関係を上記の公式を適用して8元連立方程式に表現し、これを解くことによって断面力を求めるというユニークで賢明な方法である。最後に、載荷位置を連続的に変えた時にそれぞれの断面の断面力や変形量がどうなるかを算出した。さらに、支点が不等沈下した場合や桁に温度変化を生じた場合などについて、検討を加えている。
 設計は橋梁専門業者の協力を得て公団職員が行っていた。小松先生は厳格にして几帳面な方で、当時の担当者は連日のように助教授室を訪ねて指導を受けたと伝わっている。
うして上部工の設計が固まっていくのと並行して、支承と下部工の設計が進められた。一般に、上部工と下部工をつなぐ支承には固定支承と可動支承があり、前者は橋脚に固定されて上部工に働く水平方向の地震力を下部工に伝達し、後者は温度変化などによる上部工の伸縮を吸収して橋軸方向の水平力を下部工に伝えないことを主な役割とする。しかし、S字橋においては可動支承においても橋軸直角方向の水平力が働く。こういう時に支承が問題なく機能するかどうか、実物の1/2の模型を作って実験した。またS字橋の特徴として、一部の支承に負反力(上方に引き上げる力)が働くが、これに耐えられるような構造を決定した。下部工の設計においては、地震時にS字橋の上部工に働く地震力がそれぞれの下部工にどのように分担されるかを正確に知ることが、当時は困難であった。そこで、
図5 公開で行われた大型模型実験の光景
いろいろな仮定を設けて一応の概略的な計算を行っておいて、後日 実験でそれを確認することにした。
 その実験は38年8月19日に一般に公開して実施された。1/20の大型模型を製作し、抵抗線ひずみ計・ダイヤルゲージなどの計測機器を取り付けて測定が行われた。静荷重試験として弾性限度内載荷試験・支点不等沈下試験・破壊試験の3種類の実験を行い、設計理論の妥当性を検証するとともに実橋の変形や崩壊の様相を観察し、安全性の確認を行った。動的試験では、鉛直振動試験・水平振動試験を行った。前者は、正弦的に変化する加振力を垂直方向に加え、共振震度数・振動モード・減衰率などを測定した。後者は模型全体を盤の上に置いて加振し、共振震度数などと併せて橋脚支承部に作用する水平力を測定した。これらの結果、実験値は理論値とよい一致を示し、地震時の安全性が検証できたのである。
橋が設計された当時、
図6 供用されて間もない中之島S字橋、当初 は南行きの一方通行だった
鋼道路橋に係る設計基準については「鋼道路橋設計示方書・鋼道路橋製作示方書 解説」(昭和31年)が発行されていたが、全編でA5版226ページの冊子であって、現在の「道路橋示方書・同解説」の「I共通編 II鋼橋編」が518ページ、「V耐震設計編」が405ページであるのと比べてはるかに乏しい内容であった。そのような中で特殊な橋梁を設計しようとすれば、担当技術者が自ら理論を実用化し実験によってそれを検証していく必要があったのである。特に、橋梁が破壊するまでの様子を実験により確認する入念さは特筆すべきであろう。技術審議会の先生方も熱心で、本橋の設計の最盛期に当たる38年度は、年間の審議会の開催は5回、分科会は19回を数えた。これらの尽力に製作や架設段階の工夫も加わって、37年10月の起工からわずか2年余りでの開通が実現したのである。この仕事をやり遂げたことは、公団技術陣の大きな自信になったばかりでなく、
図7 肥後橋を横過して土佐堀川と交差する中之島S字橋
その後のわが国の曲線鋼桁橋の進化に向けた礎となったのだった。
 本橋は、線形を工夫することにより両翼の曲線が同一の半径を持つ対称形にしたほか、「景観設計」という言葉がなかった当時にして橋脚の太さをそろえたり隣接橋と桁高を擦り合わせたりと、細かい配慮を見せている。今、中之島の河畔に立つと、本橋を含む阪神高速道路の優美な曲線橋群を望むことができる。河川空間を流れるように走るその姿は、躍動する水都大阪を象徴するようだ。
 冒頭に述べたように、中之島にはS字橋のほかにも、大阪を代表する橋がいくつも架かっている。これらの橋に目を向けていただければ幸いである。

(参考文献) 岩本 幸二ほか「連続S字曲線桁橋の設計と施工」(「橋梁」1965年3月号所収)
(2017.10.06) (2019.10.20)


1)鉄道の開業に伴って貨物の市内への集散のために明治11(1878)年に堂島川から大阪駅までの間に開削された運河。昭和42(1967)年に埋められた。

2) 構造物に外力が加わった時にそれに抵抗するために構造物内部に働く力。構造物の支点と外力が作用する点の位置関係により、構造物の断面ごとにその値が変わる。直線桁に荷重がかかった場合には構造物を断ち切ろうとする力(せん断力)と下に押し曲げようとする力(曲げモーメント)が重要であるが、曲線桁の場合にはこれらに加えて構造物を外側に押し倒そうとする力(ねじりモーメント)が重要になってくる。

3) この時の発表は、「薄肉曲線桁の基礎理論」(土木学会論文集87号(昭和37年11月)所収)、「単純支持曲線桁橋の立体的解析」(土木学会論文集90号(昭和38年2月)所収)などに収められている。