あ り だ

有田鉄道

みかん輸送に活躍した鉄道

鉄道時代の橋脚と桁を残す東川橋梁
 和歌山県の有田川流域はみかんの生産として有名だ。古く紀伊国屋 文左衛門(寛文9(1669)? 〜享保19(1734)年?)1)は、荒天のために出荷できないでいた大量のみかんを安く買い集め、自宅にあった古い船を修理して積込み、湯浅港を出航して嵐の中を死ぬ思いで江戸まで運んだという。この伝説にあるとおり、みかんが売れるためには消費地に運ぶ手段が不可欠だ。大正4(1915)年、そのために敷設された鉄道を有田川町に訪ねた。

図1 有田軽便鉄道に免許がおりた明治45年の近畿の鉄道網(鉄道院「大日本全国鐵道線路圖明治45年5月」より作成)
治45(1912)年、堂野前 種松ほか55名の発起人に対し有田軽便鉄道の免許が下付された。当時の鉄道網(図1)では、和歌山市以南には全く鉄道がなく、他の府県と比べてもその偏在は際だっていた。特産品のみかんの搬出に非常な不便を抱えていたので、湯浅港まで鉄道を敷くことにより内陸部と海上ルートを結ぼうといううのがこの鉄道であった。大正2(1913)年に会社が設立され、4年に海岸〜下津野間6.2kmを開業、翌年に金屋口(かなやぐち)まで2.9kmを延伸した2)。途中の田殿口(たどのぐち)駅は農協の施設に隣接し、みかん輸送専用の側線を持っていた。
 起点となった海岸駅は、湯浅町を流れる山田川と大仙堀と呼ばれる内港を分かつ背割り堤のようなところにあった。湯浅は金山寺味噌や醤油の生産が盛んな土地で、ここから各地に搬出していた。大仙堀の南岸には醸造場が今も歴史的なたたずまいを残している3)。海岸駅の立地はみかんを積み出すのにも格好の位置だった。こうして有田鉄道は有田川流域の経済に大きく寄与した。
 一方、県民が待望していた国鉄紀勢本線は、長らく建設が遅れていたが大正10年に着工され、
その後は13年に和歌山(現在の紀和)〜簑島間27.0km、14年に紀伊宮原までの4.4km、
図2有田鉄道の位置
15年に藤並までの3.9kmが次々に開通するというように精力的に建設された。藤並駅は有田鉄道と国鉄が近接する箇所に両者が共同して設置4)し、相互の連絡を図った。有田鉄道沿線の人の動きは活発になった。しかし、これを機に、みかん搬出の主力は海上輸送から鉄道輸送に急速に転換する。しかも、
図3 田殿口駅で客車の背後に見えるみかん用貨車(昭和47年頃、出典:「海南・有田今昔写真帖」(郷土出版社)) 図4 海岸駅の跡から大仙堀を見る、その左の建物は醤油醸造場
藤並が国鉄線の終端であったのはわずか1年だけで、翌昭和2(1927)年には紀伊湯浅(現在の湯浅)まで3.4kmが延伸した。以後、海岸〜藤並間は旅客・貨物とも全く不振を託つようになり、ついに9年に営業休止に追い込まれる。一時は貨物営業だけ復活したものの、戦時下の19年に不要不急路線に指定され鉄材供給のためにレールが撤去された(正式に廃止となるのは34年)。
図5 有田鉄道の開業から廃止までの輸送量の推移
った藤並〜金屋口間の営業は旅客・貨物とも好調であった。道路の荒廃や燃料の不足などから自動車が利用できない時代であったから鉄道に輸送需要が集中したのである。有田鉄道では、他社から車両を借受けて対応した。
 戦後の営業もそれなりに順調だった。海岸〜藤並間が廃止されたことの代替措置であったのだろうか、25年には、国鉄線の藤並〜湯浅間に有田鉄道の車両が乗入れることが認められた5)。国鉄線に私鉄車両が乗入れるケースはいくつかあるが、これほどの小私鉄が乗入れるのは珍しかった。
 こうして輸送量が伸長していくのかと思われた矢先、28年7月に有田鉄道は大水害に見舞われた。和歌山県から奈良県南部にかけて発生した日雨量450mm以上の集中豪雨で有田川が氾濫し、金屋口駅に留置していた車両が大破したり泥に埋まったりした。また、路床の流出も2箇所であった。休業はおよそ4か月に及んだ。
 水害のため28年度は赤字決算となったが、翌年から業績は大幅に回復して黒字経営を続けた。そして40年頃に輸送のピークを迎える。その後、42年には旅客は140万人を割り貨物も3万tを割って再び赤字となった。沿線の道路が改良され自動車による輸送が活況を帯びてきていたからである。会社は減便や人員削減などの縮小経営でこれに対応した。さらに、59年には国鉄の合理化により和歌山県内での貨物取扱いが廃止されたので、藤並駅を経由する有田鉄道の貨物輸送も廃止を余儀なくされた。
 鉄道は次第に沿線の高校への通学の足としての色彩を強めていったが、それも並行するバスに食われて、ダイヤ改正のたびに運行の縮小と乗客の減少を繰り返す状態に陥る。平成6(1994)年に小型のレールバスを導入し、7年からは前代未聞の日曜・祝日全列車運休に踏み切った。鉄道の乗車券の販売は行わず、バスの定期券・回数券で鉄道にも乗れる扱いとなった。こんな鉄道が存続しているのが不思議なほどであったが、ついに14年末をもって廃止に至った。直前のダイヤは1日2往復にまで落ち込んでいた。
止後、残された駅舎・車両・レールなどは撤去する余裕もないまましばらく放置されていたが、有田川町に譲渡されてレールの撤去、駅舎の解体や補修が進められた。町では、永年にわたり沿線の発展に寄与した有田鉄道を後世に伝えその遺産を地域の振興に活用するため、線路跡地を「ポッポみち」という歩行者・自転車道に、終点の金屋口駅構内を「有田川鉄道公園」に整備した(22年開設)。
 園内では会社が所有していた車両を動態保存しているほか、藤並駅で静態保存していたD51型蒸気機関車を移設し、民間所有の機関車等の保管や体験乗車を展開している。また、園内の「有田川町鉄道交流館」には有田鉄道をイメージした
図7 ポッポみちの沿道は今もみかん畑
ジオラマが2台設置され、うちNゲージの方では来館者が模型を走らせることができる。
 町では、鉄道公園を始めとする町内の観光施設を巡る無料バスを藤並駅から運行して、観光客の利便を図っている。
図6 自転車・歩行車道にリメイクされた廃線敷は町によりよく手入れされている、(A)天満川橋梁と(B)鳥尾川橋梁、橋梁の桁は鉄道時代のものを塗り直して用いている(C)壁面とホームを残す御領駅

図8 有田川鉄道公園の様子、(D)園地になった留置線、(E)現役時代そのままの駅舎(右に見える土手は有田川)、(F)有田鉄道から譲り受けたレールバスのハイモ180(左)と国鉄仕様のキハ58003(右)、(G)「ふるさと鉄道保存協会」が園内に保管している車両のひとつDB107

(参考文献) 寺田 裕一「有田鉄道」(ネコ・パブリッシング)                        (2017.09.15)


1) 和歌山県有田郡湯浅町の出身と伝えられる江戸時代の豪商。八丁堀に広大な邸を構えて幕府御用達の材木商を営んだが、木場を火事で失い次いで請負った貨幣鋳造にも失敗して衰退したという。松下 幸之助氏が奉納した碑が湯浅町の勝楽寺にある(右図)。


2) 金屋口まで伸ばしたのは、山間部から運び出す木材をここで鉄道に積替えることを企図したと言うが、こちらの方は狙い通りにはいかなかった。

3) 白壁の土蔵、格子戸や虫籠窓など、醤油醸造の伝統を感じる家並みが残る東西約400m、南北約280mの一帯が、平成18年に文部科学省の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

4) 藤並駅の開業の代わりに明王寺駅は廃止されたが、昭和4年に復活、7年に再廃止、9年に再復活するなど、複雑な経緯を有している。

5) しかし、紀勢本線が電化される(昭和60(1985)年)と、スピードの遅い有田鉄道の車両の混在は国鉄から冷視されるようになり、信楽高原鉄道の事故(平成3(1991)年)を契機に、その翌年に乗入れは廃止された。