大阪を高潮から守る3基の防潮水門

閉扉操作中の安治川水門
 台風は毎年 いくつか襲来するが、筆者には子どもの頃に経験した「第二室戸台風」が印象深い。気圧が低く風が強かったためか、近所の家々の屋根瓦がめくれるように飛んだ。この台風の低い気圧と強い風は、大阪にも大きな影響を与えた。梅田・船場・島之内などの都心部が高潮のために浸水したのである。これを受けて、関係機関が協力して恒久的な高潮対策が実施され、爾来 大阪は高潮の被害を免れるようになった。本稿では、対策の中核施設である防潮水門を中心に、恒久的対策の概要をレポートする。

風などの強い低気圧が沿岸に接近した時、低気圧による強い風により海水が海岸に吹き寄せられて海水面が高くなる現象と、低気圧によって海水面が吸い上げられて盛り上がる現象が同時に発生する。後者は気圧が1hPa下がると海水面は1cm上昇する関係にあり、これまで観測された最低の気圧が昭和9(1934)年に室戸岬で観測した684mmHg(911.6hPa)であって1気圧1,013hPaより101hPa小さいことから、これによる海面上昇は1mほどである。一方、前者は、吹き寄せられた水の行き場のない湾奥で大きくなる傾向があり、特に、南に向いて開いた湾の西側を台風が北上した場合に最大となる。狭義には前者を高波、
図1 それぞれの台風での浸水範囲
表1 大阪に大きな影響を与えた3つの台風の比較   
室戸台風 ジェーン台風 第二室戸台風
気圧(hPa) 954.5 970.3 937.3
総雨量(mm) 22.3 64.7 42.8
最大風速(m/秒) 42.0 28.1 33.3
潮位(O.P.+m) 4.21 3.85 4.12
浸水面積(km2) 49.2 56.3 31.0
後者を高潮と呼び分けることもあるが、合わせて高潮と呼ぶことが多い。災害の観点からは、台風に関連するこれらの潮位の上昇(潮位偏差と呼ぶ)に天文潮を加えた潮位が重要である。
去、大阪湾の西を北上して大阪に大きな影響を与えた3つの台風について大阪の高潮被害の状況を述べよう。
 昭和9年9月21日午前時に室戸岬付近に上陸した猛烈な台風は、時速80km/時というスピードで北東に進んでいた。「室戸台風」だ。しかし、当時の気象台や測候所はこの事実をよく把握していなかった。測候所が発表した「次第ニ天候回復スル」という予報を7時40分にラジオが伝えている時には、
図2 大阪城大手門前公園に屹立する「教育塔」
すでに測候所の電話が不通となり直後に信号鉄塔が倒壊したのである。風速計は60mを指して振り切れた。当然、市内でも被害が続出していた。
 室戸台風で長く語り伝えられているのは小学校における犠牲である。7時過ぎには普段どおりに登校したが、そのうちに急激に風が強くなり8時頃には強風のために市内の244校のうち176校で校舎が倒壊して児童・教員278名が死亡、2,006名が重傷を負った。大阪城の大手門前公園に建つ「教育塔」はその慰霊のために災害の2年後に建立されたものだ。
 それよりも死者が多かったのは急速な潮位の上昇による海水の進入によるものだった。築港での観測では、7時49分には路面の冠水が見られなかったのが8時には83cm、8時14分には222cmの水深になった。天保山検潮所でO.P.1)+5.1mという潮位を観測した(後に4.21mに修正されている)が、これが沿岸の各所から(当時は海岸に防潮設備がなかった)陸域に流れ込んだのである。市域の27%、49km2が浸水し、逃げ遅れて約1,900人が亡くなったと推定されている。
 この台風の後、南港防波堤などを含む大阪港修築計画の促進が図られ、校舎の鉄筋化などの教育設備の近代化が進められた。また、深刻な高潮被害をもたらした地盤沈下の原因について継続的な調査が開始された。
 戦後、大阪では「枕崎台風2)」(昭和20年9月17日)の復旧事業として3〜3.5mの防潮堤の建設が進められた。しかし、敗戦直後の物資窮乏のなかで構築されたため、戦災で焼け落ちたがれきまじりの土砂を盛った土堤にすぎないものだった。そのため、昭和25年9月3日12時ころに神戸に上陸した「ジェーン台風」では、高潮が河川に逆流してその流水と漂流物のために防潮堤が決壊し、大阪市の30%、56km2が浸水した。大阪湾における潮位はO.P.+2.7m(後に3.85mに修正)であり室戸台風に比べればかなり低かったのにこれだけの広範囲が浸水したのは、戦時中に地盤沈下が進んで海水面より低いところが増えたためだ。最大潮位を記録した時刻はほぼ干潮時であり、もし満潮時ならばさらに被害範囲は拡大したものと思われる。米軍から気象情報が提供されたこと、台風の襲来が昼間であって避難行動が可能であったこと、当日は休日で沿岸の工場に人が少なかったことなどが幸いし、人的被害は室戸台風より格段に少なかった。
 これにより西大阪地域の恒久的な高潮対策の必要が痛感され、当年度の内に国・大阪府と大阪市が協力して「西大阪高潮対策事業」が着手された。その内容は、@河川・運河・海岸に沿って124kmに渡りO.P.+3.0〜6.5mのコンクリート製防潮堤を築造、河川には防潮水門を設置、A港湾地域一帯を嵩上げ、B20箇所のポンプ場を新設、C事業効果を高めるため不要になった水路等を廃止、などの施策を含み、総事業費は221億円に達した。事業は34年に一応の完成を見た。ところが、戦後復興の進展により工場の操業が活発化して地盤沈下がきわめて激しくなっており、防潮堤の機能は日に日に低下する一方であった。そこで、同年の伊勢湾台風3)の被災状況も勘案して、直ちに新たな高潮対策に取り掛からなければならなかった。
 そのさなかに来襲したのが「第二室戸台風」である。36年9月8日午後1時頃に武庫川付近に再上陸した台風は、大阪到達時の気圧が937.3hPaと室戸台風より低く、最大瞬間風速50.6m/秒を記録する暴風に樹木や建物の倒壊が相次いだ。この台風では、テレビというこれまでなかった効果的な情報伝達手段を通じて呼びかけが継続的に行われたことに加えて先年の名古屋での被災の生々しい記憶から住民の避難行動が促進され、市内1,056か所の避難所に44万人が避難した。高潮による死者は4人という結果であった。
 先述のように124kmの防潮堤が完成していたところであるが、ジェーン台風以後1mも地盤沈下しており計画高を下回る所がいくつも出ていた。防潮堤は重量が大きいため沈下の影響を顕著に受けるのである。大阪港の最大潮位がO.P.+4.12mであっても防潮堤を越えて水が入り込み、市内の浸水面積は31km2に及んだ。浸水域が室戸台風よりも内陸に拡大したのは、小河川を遡上した高潮が内陸で氾濫したのがほとんどである。また、過去に浸水しなかった中之島が浸水したのは、ビルによる冷房用水の採取があったためとされる。
 取り急ぎ防潮堤の機能を復旧しなければならないというので、36年度に20億円余の事業費を追加し、37年度〜39年度にわたり115億円を投じて「緊急3ケ年計画」が実施された。当時は、大川の下流の諸河川では、埠頭や造船所がいくつもあったほか大きな工場や倉庫がびっしりと張り付いて盛んに荷揚げを行っており、これらに支障なく事業を進めるため、既存の護岸の前面にディーゼルパイルハンマー4)で矢板を打ち込む工法をとった。振動や騒音がものすごい工法だが、前年の被害があったので住民らが大いに協力し、予定どおり3年間で60kmの防潮堤を建設した。
方、このように防潮堤を建設しても、地盤沈下を放置しておけばいずれ機能を失うのは明らかだ。大阪の地盤沈下については、昭和3年に旧陸軍陸地測量部が水準点を改測して20cm程度の沈下を観測したことで初めて認識されたが、当時は原因が明らかではなかった。その後、第二次世界大戦が勃発し地盤沈下はいったん小康状態となったものの、戦後の復興と共に再び顕著となった。継続的な観測によりその原因が地下水の過剰揚水にあることが判明したので、地下水の利用を規制する必要が強く指摘され、「工業用水法」が34年から施行され同時に市の「地盤沈下条例」も制定されて、工場での地下水使用を当時 建設が始まっていた工業用水道に転換する施策が講じられた。しかし、
図3 地下水採取量と地下水位・沈下量
これらは新設の210mより浅い井戸だけを禁止していたので、進行する沈下を抑制する効果はほとんどなかった。そこで関係者(大阪府・大阪市・大阪商工会議所)が共同して「大阪地盤沈下総合対策協議会」を結成して国に立法化を働きかけた結果、37年に「ビル用水法」が成立し冷房用水を地下から採取することが困難になった。同時に工業用水法も改正されて、既設のものも含めて600m以浅の井戸は全て禁止された5)ので、地下水の使用は全く経済性を失うことになった。並行して、大阪府は淀川から取得した水を市内に通水する工業用水道を整備した。こうした施策により、37年を境に地盤沈下は収束の方向に向かい、42年頃にはほぼ沈静化した。
「緊
急3ケ年計画」が完了し、40年度からは「治水事業後期5箇年計画」6)に基づいて恒久的な高潮対策を施すことになった。まず、計画潮位を定めるために運輸省・建設省・大阪府・兵庫県・気象庁が協議し、大型コンピュータを使ってさまざまな計算を行った。その結果、7〜10月の平均満潮位O.P.+2.2mに室戸台風と同じコースに伊勢湾台風と同規模の台風が襲来した時に想定される潮位偏差3mを加えて、O.P.+5.2mに設定することとした。その上で、神崎川については従来どおり沿岸に防潮堤を築く方式とし、新淀川以南の河川については大型の防潮水門を築いて高潮の流入を阻止する方向が示された7)。水門方式を採った理由は、これら河川で防潮堤を計画潮位まで高くすると、河川を利用する多くの造船所や工場などの操業を阻害する上に、市内の多くの橋梁を嵩上げする必要が生じ都市交通の面から困難だと判断されたからだ。
図4 開扉している安治川水門
 上記の方針に沿って、規模の大きい安治川・尻無川・木津川には、大型船舶の航行が可能な水門が計画され、ライン川派流のレック(Lek)川(オランダ)の流量調整用水門を参考に、耐震性・耐風性に優れたアーチ型を主水門に採用することとした(正連寺川と六軒家川には施工例の多いローラーゲート型が採用された)。これは、1/4円弧を描く描くガイドアーチ(図4でベージュ色に塗られているもの)に沿って敷設された4本のワイヤロープを上部にある巻上機で操作することによりアーチ型のとびら体(エンジ色)が回転して河道を開閉する形式だ。
 他の水門に先駆けて安治川水門が41年度に着手された。アーチ型の上部工は珍しい形式であるため検討課題が多く、「高潮対策技術研究委員会」(委員長:石原 藤次郎京都大学教授)を設置して波圧・耐震・耐風について模型実験や解析を行って設計が進められ、とびら体の幅66.0m、高さ11.9m、径間長57.0m、
図5 安治川水門上部工の一括架設(出典:参考文献1)
開扉時のクリアランスO.P.+12.5mなどの緒元が決定された。
 施工においては、ケーソンに苦労したようだ8)。安治川では一般に支持層とされる天満層9)の第1砂礫層が薄く、O.P.-50mにある第2砂礫層まで掘り下げなければならないと判断され、ケーソンの高さは44mという大きさになった。函内気圧を4.5気圧程度まで上げなければならないことになるが、潜函工が耐えられるのはおよそ3気圧までであることから、深さ60mの井戸を掘りそこからポンプで水をくみ上げて地下水位を15m下げる工法を採った。
木津川水門 尻無川水門 安治川水門
図6 恒久的高潮対策として建設された3つの水門、副水門と操作棟の配置が異なるほかは同一の設計だ

 上部工は、左右の巻上機を完全に同調させる必要があることから、製作に高い精度が要求された。工場内で組立てたとびら体を仮設のトラスに乗せて1,200tフローティングレーンで現地に運び、
表2 3水門の概要                                
木津川水門 尻無川水門 安治川水門
川      幅 約73m 約85m 約85m
ケーソンの形状
(幅×長さ×高さ)
14m×24m×18.7m 12m×24m×27.4m 10m×20m×44.0m
使用コンクリート量 22,000m3 19,000m3 28,000m3
使用鋼材量(上部工) 1,500t 1,500t 1,500t
工      期 42年6月〜45年11月 42年6月〜45年11月 41年6月〜45年3月
事   業   費 2,568百万円 2,791百万円 3,138百万円
約3,000本の高張力ボルトで結合して架設を完了した。この間、航路閉鎖は8時間。
治川水門は45年3月に完成し、大阪万博の開会式に向かわれる今上陛下(当時は皇太子)が視察のために立ち寄られている。11月には尻無川水門と木津川水門が完成し、その他の水門や防潮堤の嵩上げも終わって、防潮ラインが完成した。以後、大阪では高潮の被害を受けておらず、これまでのところ文字通り恒久的対策となっている。
表3 安治川水門の稼働実績         
昭和50(1975)年 8月22〜23日 台風 6号
昭和54(1979)年 9月29日〜10月 1日 台風16号
平成 6(1994)年 9月29日〜30日 台風26号
平成 9(1997)年 7月26〜27日 台風 9号
平成15(2003)年 8月 9〜10日 台風10号
平成16(2004)年 8月30〜31日 台風16号
平成16(2004)年 9月 7日 台風18号
平成30(2018)年 9月 4日 台風21号
特に、平成30年9月4日に25年ぶりに非常に強い勢力で上陸した台風21号の来襲においては、329cmという過去最高の潮位を観測し関西空港が浸水するなど大きな被害を受けたが、安治川水門などが適切に運用されて市内の被害を防いだ。もし被災していたら被災額は17兆円に及んだろうと言われる。
 大阪は水門やポンプなどの設備によって高潮から守られているといってよい。これらはいざというときにしか使わない施設だ。それだけに、いざというときには確実に稼働するよう日頃から危機感を持って点検・整備と訓練を行うことが重要である。府では毎月1回(安治川・尻無川・木津川水門については6月〜10月は2回)試運転を行っている。それほど入念に稼働を確認しなければいけないと言うことだ。
 建設されてから50年近く経つから、常用する施設ではなくとも高齢化も懸念されるところだ。府では、精密点検により、推定される余寿命を12〜22年としている。また、最近では高潮対策として作られた防潮水門を津波対策としても活用する必要が指摘されている。津波遡上対策として水門を閉鎖することを検討したところ、津波被害の軽減には有効ではあるが津波の外力により水門が損傷して開閉が困難になる可能性が判明した。これらの結果を受けて、府では3水門を津波にも耐える新たな施設に更新することを決定した。新たな水門は引上げ式構造のローラーゲートを採用。余寿命を勘案して計画的に整備を進めている。

(参考文献)
1 新池 隆△大阪市内の高潮対策について」(「大阪の河川(かわ)を愛する会」講演会、http://www.japanriver.or.jp/circle/
oosaka_pdf/2007_shinike.pdf)
2 山本 英男「安治川水門の概要」(「日立造船技報」第32巻第3号所収)
(2017.08.25)(2022.12.18)

1) 大阪湾最低潮位(Osaka Peil)のこと。制定時には明治7(1874)年に観測された大阪港の最低潮位をO.P.±0と定義していた。昭和10年からは、毛馬洗堰に設置された基標(O.P.+4.697m)を基準とするように改められた。その後、毛馬基標の沈下が明らかになったことから、41年以降は国土地理院一等水準点「基21」(茨木市大字福井)に基標を移し、この標石の下65.4235mをO.P.±0とすることとされた。現在は全国の標高の基準となる水準原点(東京都千代田区永田町)をT.P.(東京湾中等潮位)+24.414mと定義し、O.P.=T.P.+1.3mと換算して用いている。

2) 終戦後間もない9月17日に鹿児島県枕崎市に上陸し、日本列島を縦断して三陸方面に抜けた台風。気象情報が少なく防災体制も十分でなかったため各地で大きな被害が発生した(死者・行方不明3,756人、負傷2,452人)。特に広島での被害が大きく原爆の惨禍に追い打ちをかけた。

3) 昭和34年9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心として、ほぼ全国に甚大な被害を及ぼした台風である(死者・行方不明5,098人、負傷38,921人)。かなり早い時期から正確に上陸が予想され対策を講じる余裕があったにもかかわらず空前の大被害が発生したのは、行政の災害への啓発が充分でなかったため対応が遅れたとされる。これを受けて36年に「災害対策基本法」が公布され、発災時の対策や救援・復旧等の基本方針をあらかじめ策定しておくこと等が定められた。

4) 鋼管杭や鋼矢板などを地盤中に打ち込む際に用いる大型の打撃ハンマー。工事敷地境界における騒音レベルが 80db 前後であり、加えてディーゼルエンジンの排ガスが発生し、環境保全の観点等で問題があり、現在では市街地では殆ど使われない。

5) 地下水規制を実施するにあたって大阪市と大阪府は大阪平野の深層ボーリング調査を行い、中部更新統の下限が深度500〜600mにあること検証して、この範囲からの揚水を禁止することとした。なお、更新統とは、かつては洪積世と呼ばれ、新生代第四期に含まれるもので、中部更新統はおよそ78万年前から13万年前までの期間の地層のこと。

6) 昭和34年の伊勢湾台風を契機として35年に制定された「治水特別会計法」に基づいて国及び都道府県知事が定めることになった治水事業の長期計画で、35年度を始期とする10箇年計画の後半5年分を指す。

7) 防潮水門を閉じている間に寝屋川などから流入する水や市街地からの排水を処理するため、淀川と大川の分流部にある淀川大堰に毛馬排水機場が計画された。330m3/秒(甲子園球場を30分で一杯にする)という排水能力を持つ。

8) 安治川では支障なく工事が進んだが、尻無川水門では44年11月に大きな事故が起こっている。ボルトが破壊したために瞬時のうちに空気が漏れてケーソンが急激に沈下し同時に地下水が湧いてきて、逃げ遅れた作業員11名が犠牲となった。調査の結果、ボルトがリサイクル品でありかつ締め付け力の管理がされていなかったために強度が不足するものがかなり混じっていたことが原因とされ、以後、JIS規格の新品を使うことが徹底された。左岸側の水門敷地内に慰霊碑がある(右図)。

9) 建設技術者の間で用いられる地層名で、上町台地の西縁地域において更新統のうちで最も新しい地層を指す。およそ1万年前に形成されたとされる。天満地区に厚く発達していることからの命名である。粘土層と砂礫層の互層になっており、そのうち砂礫層を構造物の支持層として用いる。