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町台地と生駒山系に挟まれた低地は、縄文時代には河内湾と呼ぶべき海域であり、それが海水面の低下と大和川等から運ばれる土砂の堆積で次第に陸地化したものである。江戸時代には、最も低いところが深野池や新開(しんが)池などの遊水池になっていた。これらは極めて浅く、気象によって形が変わったという。このうち深野池について、元禄2(1689)年2月にこの地を訪れた貝原 益軒は、その著「南遊紀行」において、池は南北2里、東西1里の大きさで湖のように見えると言っている。また、池の中の島に三ケ(さんが)1)という村があって70〜80戸が半農半漁の暮らしをしていたという。
深野池周辺はたびたび洪水に見舞われた。甚大だったのは延宝2(1674)年に深野池など35か所で決壊した水害(寅年大水害)で、これを含めて3年連続で同じ個所が被災するという悲惨さであった。今米村庄屋 川中 九兵衛2)らは水害の元凶である大和川の付替えを求めて熱心に陳情したが、付替えは実現せず代わりに幕府は河村
瑞賢に安治川の開削を行わせた(貞享元(1684)年)。しかし、早くも翌年には深野池に流れ込む諸河川が溢水するという災害が起こった。これは深野池から下流の川幅が狭いことが原因であるとして、幕府は一応は改修を行ったが、河口部の大坂を洪水から守ることが重要であるから、河道の拡幅はわずかだった。このような幕府の治水方針は近在農民にとって強い不満であった。4年には、“決壊箇所を検分されたので改修工事をしてもらえるかと喜んでいたのに何の工事もなく裏切られた感がある。奉行は江戸に行かれるそうだが、この状況を良く説明して必ず工事をしてもらいたい”という切々とした訴状を提出している。それでも幕府は堤防の一部の改修など微細な工事を行うだけで、農民の期待とは程遠いものがあった。
その幕府がついに動いたのは元禄16(1703)年。大和川付替えを発令したのである。これには代官
万年 長十郎頼治の稟議が大きかったと思われる。彼は十余年にわたる在勤中に瑞賢に随行して摂河の河川を巡検し両国の治水に明るかった。川幅100間(約181.8m)、延長3里24町(約14.4km)の新川筋を開く工事は、翌年2月から始まり10月には完成するというスピード施工であった。
替えにより廃止になった河川敷や池沼の跡には新田が開発された。幕府が巨費を顧みず大和川の付替えを行ったのは、新田開発による年貢の増収が目的だったから、付替えが終わった翌年(宝永2(1705)年)から早くも始められた(以下、この時に新田に変わった旧深野池の範囲を「旧深野池」と呼ぶ)。深野池では、商人らにより尼崎新田(尼崎
又右衛門)・横山新田(横山 新左衛門)・河内屋新田(河内屋 源七)などが開発されたが、かなりの部分は
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番号 |
新田名 |
原地籍 |
面積(町) |
石高(石) |
@ |
諸福村新田 |
池床 |
7.1 |
63.9 |
A |
灰塚新田 |
池床 |
3.7 |
36.3 |
B |
中村新田 |
川筋 |
5.4 |
55.0 |
C |
横山新田 |
池床 |
3.2 |
37.0 |
D |
尼崎新新田 |
堤防跡 |
7.7 |
74.6 |
E |
尼崎新田 |
池床 |
28.9 |
316.5 |
F |
三箇新田 |
池床 |
0.8 |
9.4 |
G |
河内屋北新田 |
池床 |
49.1 |
560.0 |
H |
深野北新田 |
池床 |
57.7 |
653.9 |
I |
深野中新田 |
池床 |
97.3 |
1,091.7 |
J |
深野南新田 |
池床 |
62.3 |
695.9 |
K |
御供田新田 |
池床 |
4.8 |
51.7 |
L |
河内屋南新田 |
池床 |
11.7 |
138.8 |
M |
川中新田 |
川筋 |
39.6 |
386.5 |
合 計 |
379.3 |
4,171.2 |
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図1 大和川の付替え後に開発された新田、1町は約9,917m2、1石は約0.18m3で享保6(1721)年の再検地によるもの |
浄土真宗東本願寺が開墾権を取得した。これは、東本願寺難波別院の十二日講の講員が入札したものが難波別院に献納されたことにより、幕府から東本願寺に開墾許可が与えられたものである。本願寺は自らで開拓するのではなく、請負人を募集して開拓させる方法を採った。寺が請負人から集めた先納銀は1反当たり銀100匁であったが、幕府への納付は入札により金4両、すなわち銀240匁であったので、差引き140匁を寺が負担したことになる。これを含め、開発が完了する正徳3(1713)年までの9年間に寺が要した費用は9万7,853両に上った。財政が豊かではない東本願寺が開拓した新田は、間もなく売り渡されて平野屋や鴻池屋らの豪商が掌握することになった3)。しかし、開発に携わった農民たちは難波別院の直参門徒として講を組織し、
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図2 旧深野池周辺に見られる水郷のなごり、井路に沿って一段高く石垣を積んで蔵を設けている(「段倉」という)旧家(左、御領地区で撮影)と井路で使われた川舟(右、「鴻池新田会所」での展示を撮影) |
東本願寺との土地関係がなくなっても宗教関係は永く保たれた。
こうして開墾された旧深野池には用排水を流す1間半から2間の水路幅を持つ井路(いじ)とその堤が3万余間掘りたてられ、川幅8間の恩地川と13間の寝屋川が角堂浜で出会い、西へ19間から30間と川幅を広げながら大川の合流点まで整備された。ただし、このような整備によっても排水は芳しくなかったようで、その後も井路の増設が図られている。 |
湿な新田に見られる集落の特徴は、河川に沿う微高地などに家屋が並ぶ「列村」だ。この集落形態は、新田開発以来260年間 明治維新や戦中戦後の変革期においても変わることなく維持された。この地区が、大きく変容するのは昭和30年代後半だ。阪奈道路の開通(34(1959)年)を契機に工場の進出が進み、やや遅れて住宅造成の波が訪れた。それまで有業者の90%が農業に従事し低湿な水田であったところが一気に郊外住宅地に変貌したのである。 |
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図3 国土地理院旧版地図に見る昭和32年頃(左)と47年頃(右)の旧深野池の様子、32年にはわずかに見られるだけだった工場や住宅団地の進出がその後の15年の間に大きく展開している(河川(青)・工場(茶)・家屋(橙)の着色は筆者) |
寝屋川流域については、府は29年に河川計画を策定し、これに基づいて第二寝屋川や平野川分水路を開削したが、一方で、計画は農耕地に20cm湛水することを許容していた。しかし、想定していたよりも流域の市街化ははるかに急激で広域的であり(人口:策定時予想105万人→実績170万人、市街化区域面積:策定時予想51km2→実績158km2)、農地の転用によって計画で期待された自然遊水機能は著しく減退していた。そこで府はこの間の変化を反映した第2次の計画を策定したのだが、ちょうどこのタイミングで起こったのが47年の「大東水害」である。7月10日から13日にかけて最大330mmの雨量があり、府内の河川堤防の被害は328箇所、道路・橋梁の被害は351箇所、
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図4 旧深野池の範囲と大東水害の浸水地域 |
床上・床下浸水はそれぞれ6,186戸、40,346戸を数えた。
土地利用が水田から住宅地へと変化し地表がアスファルトなどの流出係数4)の高い材料で覆われるようになっても、河内平野で最も低いという旧深野池の地勢的条件が変わるわけではない。しかも、工場などによる地下水のくみ上げで、大東市では約120cmも地盤が沈下した。寝屋川流域は生駒山麓を除いたほぼ全域が内水域(地盤が川より低く自然には排水しない土地)なのだ。ここにまとまった雨が降ると行き場を失った水がどうなるかを如実に示したのが、大東市域が“どぶ浸かり”になった大東水害だったと言えよう。大東水害は、その被害の大きさもさることながら18年に及んだ水害訴訟5)で著名だ。
年に国の認可を受けた第2次計画には、河道の拡幅や分水路の建設に加えて
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図5 大東水害の被害の様子(出典:http://www.pref.
osaka.lg.jp/kasenseibi/seibi/neyakyogikai_01.html) |
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図6 深北緑地における貯留の仕組み |
3箇所の遊水地の整備が含まれていた。このうちの1つが深北緑地である。 深北緑地は、まだ市街化していなかった大東市深野北から寝屋川市河北にかけて計画された面積50.3haの治水緑地で、49年から用地買収に着手し平成3(1991)年に全体の治水機能が完成した。平時はレクリエーションやスポーツが楽しめる緑地公園、大雨の非常時には増水した水を一時的にためて洪水を未然に防ぐ遊水地として機能する(図6)。寝屋川の水位が上がると越流堤を越えて深野池を含むAゾーンに水が流れ込んで貯留され(権現川からも流れ込む)、さらに量が増えるとBゾーンやCゾーンにも貯留される。全体の貯水量は146万m3もあり、50年確率洪水に対応できる。これまで最大の貯留は平成元年9月で、台風22号が秋雨前線を刺激して豪雨に見舞われたが、すでにBゾーンの掘削まで終えていた深北緑地に94万m3を貯留して寝屋川の水位を約70cm低下させる効果があった。
水池の整備により沿川の遊水機能は一定確保された訳だが、さらに市街化が進展すれば再び浸水の危険が高まることになる。そこで、昭和63年に策定された第3次計画では、地下河川などの河川管理者による施設整備に加えて「流域対策」が盛り込まれた。その代表的なものが「雨水浸透阻害行為の許可制度」。この制度は、当初は民間から一定規模以上の土地を宅地化・舗装・締め固め等する開発許可が申請された際に貯留施設の設置を行政指導するものであった。開発行政を担当する部署と河川管理者がこのように連携できたのは60年に設置された「寝屋川流域都市水防災協議会」(流域11市、大阪府、建設省)の働きが大きい。平成18年に寝屋川流域が「特定都市河川浸水被害対策法」(平成15年法律第7号)に基づく「都市河川流域」に指定されてからは、開発行為前の雨水流出量まで抑制する対策を施して知事の許可を受けなければならないことになった。
この制度が初めから導入されていたら大東水害も未然に防げたのではないかというのは、恐らく後からする議論であろう。開発者が開発利益の一部を地域の防災のために拠出するというのは、災害のリスクが顕在化するまでは合意に至るのが難しい。残念ながら社会の仕組みを構築する国民世論はそれほど理性的ではないのだ。一般に人は自ら経験しないことには懐疑的・保守的である。
近頃、雨の降り方がこれまでになく激しくなっているような気がする。この傾向の中で、これまでの経験とは異なる事象が起きるかも知れない。その時、新たな災害を生み出さないためには世論の保守性を打破するだけの情報提供や沿川との協働が必要だと思われる。大東水害訴訟で示された、河川は洪水の危険を内在する自然公物だという認識を流域の住民と河川管理者が共有して、防災に向けた足並みを揃えていくことが望まれるのではないだろうか。 |
(参考文献) 川村 和史「近世大東の新田開発-大和川の付替えと深野池」(大東市歴史民俗資料館「近世大東の新田開発」所収)
(謝辞) 本稿の作成に当たり大阪府寝屋川水系改修工営所のご教示を賜った。
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(2017.07.24) |
1)三箇とも書く。戦国時代に活躍した三好 長慶の被官である三箇 伯耆守頼照の拠点。頼照は永禄7(1564)年に宣教師ガスパル・ヴィレラ(Gaspar Vilela)から受洗した敬虔なキリシタンのひとりである(当時の河内は7,000人の信徒を数えたというほどキリスト教の盛んな土地であった)。ルイス・フロイス(Luis Frois)により「水に囲まれた小さい島にある」と描写された彼の教会は、その後の弾圧で跡をとどめないが、一説にはJR住道駅の近くにあった「角堂」(すみのどう)がそれだという。
2) 大和川の付替えを実現した中 甚兵衛(寛永16(1639)〜享保15(1730)年)の父とされるが、法名だけしか伝わっておらず実像は不明。
3) 新田経営は減価償却が済むと年1割ほどの利益を生む優良な事業であり、商人は参画を希望していたが、体制を維持したい幕府は、有力商人が台頭するのを避けるため彼らによる開発に制限を加えていた。そこで、第3者に入札させて事業完了後に買い取るという手法を採ったというのが真相だと思われる。
4) 降雨量に対して地表を流下する雨水の割合。降雨は地中に浸透したり樹木に付着したりするので流出係数は1より小さいが、それらが少ないほど係数は1に近づき、林地・耕地・原野など表面が固められていない土地で0.2程度、コンクリートなど不浸透性の材料で覆われた土地で0.95程度となる。
5) これは図4で野崎駅の東に描かれている浸水地区の住民71名が提訴したもので、JR線の複線化に伴って改修された区間と外環状線の建設に伴って改修された区間に挟まれた未改修の谷田川から溢水したとして、未改修の放置と浚渫等の管理の怠慢が河川管理者としての重大な管理瑕疵であると主張したものである。第一審と第二審では住民が勝訴したが、上告審では一転して差戻しとなり差戻し控訴審判決で住民敗訴が確定した。判決では、@自然公物たる河川は管理されるより前から洪水の危険性を内在しているものであり、治水対策はそれを軽減し安全なものに近づける過程であるから、絶対的安全性を具備することは不可能であるとしたうえで、A特定の河川について安全性が欠如していたかどうかの判断には、河川管理には財政的・技術的・社会的制約などが存することを考慮しなければならない、というものであった。
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