生野銀山を支えた産業道路、「銀の馬車道」

往時の面影を残す畑河原池付近の銀の馬車道
 大同2(807)年に発見されたと伝わる生野銀山が本格的に採鉱されたのは、但馬守 山名 祐豊が天文11(1542)年に生野に城郭を開いた以降のことだ。銀山の経営は織田・豊臣氏から徳川幕府に引継がれ、3代将軍家光の頃に最盛期を迎え月産150貫(約562kg)を産出したという。が、当時の掘削技術では排水や通風に限界があり次第に衰退していった。明治元(1868)年、銀山の官営化を果たした明治政府は、フランスの技術を導入して鉱山の近代化に取り組んだのだ。その一環として建設されたのが本稿で紹介する銀の馬車道である。

の馬車道とは、正式には「生野銀山寮馬車道」といい、生野銀山と飾磨港を結ぶ馬車道だ。延長約49km、幅員約5.4mで、明治6年に着工、9年に完成した。この建設を指導したのはレオン・シスレイ(Leon Sisley,1847〜1878)だが、彼について記す前に明治初期の生野鉱山の近代化に触れておこう。
 幕府領を剥奪した明治政府は、
図1 生野銀山にあるコワニェの胸像
それまでのように民間に許可を与えて事業を行わせるのではなく直轄で行うこととし、疲弊した鉱山を先進技術で再興するため、薩摩藩が雇用していたフランス人鉱山師フランソワ・コワニェ(Jean Francois Coignet, 1835〜1902年) を譲り受け1)、朝倉 盛明(天保14(1844)〜大正13(1924)年)とともに生野に派遣した。元年9月のことであった。両者の肩書は、コワニェは鉱山師兼鉱山学教師、朝倉は鉱山司判事試補で、それぞれ33才と25才だった。
 朝倉 盛明は、薩摩藩田中家に生まれ医学と蘭学を学んでいたが、元次元(1864)年に藩の密命を帯びて五代 友厚ら18名とともに渡欧。この時の変名が朝倉であった。いったんロンドンユニバーシティカレッジの聴講生になるも、五代の求めで鉱山学に転じてフランスに渡った。しかし、明治維新のため学業を遂げることなく帰国し、
図2 明治9年に完成した工場の全景(出典:参考文献1)
以後、明治政府のもとで生野鉱山の仕事に尽力することとなる。
 コワニェは、フランスで著名な鉱山都市であるサン・テチェンヌ(Saint-Etienne)国立鉱山学校を1855年に卒業して各地で経験を積んだ後、薩摩藩の招聘を受けて慶応3(1867)年に来日していた。生野に着いた彼は直ちに従者を連れてほとんど廃坑同然になっている一帯の鉱山を視察し、手作業で行ってきた採鉱や精錬を機械化すれば銅を中心とした生産は可能だと判断し、工場用地の測量や動力用としての水路の設計等を進めた。その傍ら、宿舎に簡単な分析室を設けて研究したところ、鉱石にかなりの金を含んでいることを発見した。従来、生野の銀は色がさえないという理由で劣位品の扱いを受けていたが、その不純物の大部分が金だったのである。彼は金銀鉱の開発を優先して進める新たな計画を策定し、直ちに溶鉱炉等を発注するなど実行に移した。予算の獲得や工場建設のための住民立退きには朝倉の強力な政治力が発揮された。
図3 コワニェによる鉱山の近代化の例、鉄路による構内輸送(左、出典:参考文献1)と石材で固めた坑口(右)
 ところが、4年、維新後の施政に不満を持つ農民らが暴徒となって狼藉を働き、工場施設が焼打ちに会う事件が起こった。鉱山施設が対象になったのは、鉱山建設に伴うおびただしい機械類の輸送による街道普請の賦役の重さが暴動の引き金になったからであった。機材調達のために一時帰仏していたコワニェが呼び戻され、再建が進められた。焼打ちの経験を踏まえて、主要な建物はフランスから来た職人の指導による煉瓦造りとされ、9年5月に完成し工部卿 伊藤 博文を迎えて盛大な落成式が行われた。
場の建設と同時に進められたのが、鉱山と飾磨港を結ぶ交通路の整備だった。精錬用の石炭8,100t、アマルガム合金を作るための塩200t、その他の物資200tの合計8,500tの輸送が1年間に必要とされていた
図4 「銀の馬車道」の位置図(A〜Iは図10に対応)
(朝倉 盛明「生野鉱山行業の景況」による)。1日30t近い量だ。しかるに、播磨と但馬を結んでいた当時の生野街道は幅員が2m程度で、人がすれ違うのがやっとという状況だった。先の暴動の経緯もあり、工場の操業が本格化するまでに円滑な交通路を確保することが急がれた。
 当初、交通路として3案が比較された。ひとつは舟運である。市川は中流の屋形までは舟2)が通っていたので、それより上流を開削して生野まで航路を拓くことが検討された。しかし、生野峠を抉って流れる市川の改修は工費がかさみ、農繁期には井堰が設けられて航行不能になるということで廃案となった。次に鉄道敷設が考えられたが、求められる輸送量に比べて投資があまりにも大きいとして却下された。最後の案が馬車道の修築であった。そして、この計画と施工は、コワニェに従って来日していた義弟のシスレイに委ねられた。
 朝倉は事業のコストと経済効果にこだわっていた。馬車道は、市川左岸を走る生野街道を拡幅・修築することを原則とし、その費用として工事費5万2,500円(1.05円/m×50km)、用地費2万4,684円(34銭/坪×7万2,600坪)、家屋補償費1,200円(40円/軒×30軒)、シスレイらの給与や旅費1万円、合計8万8,384円と見積もった。また、1tの物資を生野から飾磨まで人夫が運べば17円29銭かかるのに対し、新しい道を馬車で運べばわずか2円で済むと計算し、8,500tの物資を運べば年間12万9,965円の輸送費の節減になるとした。6年12月に工部省において「播州飾磨津ニ至ル道路ハ(中略)極テ狭隘且屈曲凹凸等アル為メニ其物品ノ輸出入不便ノミナラス運搬ニ多費ヲ要シ鑛業ニ不利ナルヲ以テ馬車道ヲ新設スルヲ議決」しており、朝倉の主張がそのまま認められたことがわかる。
 生野街道を馬車道化することについて、沿道は肯定的だったようだ。屋形村は4年の一揆が最も激しかったところであるので、当初の案では馬車道は集落を避けることとしていたが、それでは往来を旅する人で成り立っている村の生計が維持できなくなると強い請願があり、街道を修築する案に変更されている。辻川村では、街道に面する庄屋らが率先して住宅の塀を後退させて拡幅に協力した。
スレイは、馬車の通行に耐える道路としてマカダム舗装を採用した。マカダム舗装とは、マカダム(John Loudon MacAdam、1756〜1836)が考案した舗装工法で、1816年以降イギリスで盛んに用いられるようになったものだ。マカダムは技術者ではなかったが、有料道路企業の管理者として先行するトレサゲ(P.M.J. Tresaguet、1711〜96)やテルフォード(Thomas Telford、1757〜1834)の工法を見て、あるひらめきを得た。テルフォードらが舗装の底部に大きな石を入れて頑丈にしていたのに対し、彼は、交通荷重は原地盤が乾燥しておれば充分負担できるものであり、舗装には排水機能と荷重分散機能があれば足りると考えた。これにより、材料の入手と施工の練度の両面からコスト低減が図られた。
図5 テルフォード舗装とマカダム舗装の比較(出典:多田宏行ほか「漫画で学ぶ舗装工学- 基礎編」(建設図書))
現在のアスファルト舗装は表層から路盤へと下層に行くほど品質の悪い材料を置いていくが、この考えはマカダムの発案に遡るものだ。
 馬車道の舗装について、朝倉は、耕土を除去した上に粗石の層を設け、直径1寸(約3.3cm)ほどの小石を厚く敷き連ね、地形の状況によって荒い砂や砕石を使用して堅固な道路に仕上げると記録しているが(前掲書)、舗装設計と施工の実態はよくわからない。山麓や川岸では路側に石垣などが築かれ側溝が整備されたようだ。また、砕石の締固めは人力ではなくローラーを輸入して使用した可能性がある。
 平成18(2006)年、マカダム舗装の遺構を確認するため、兵庫県は生野峠の南麓で発掘調査を行った。生野街道の急な勾配を避けて新道を拓いた箇所である。ところが、そこでは砕石や小石の層は見られたがマカダム舗装の特徴は発見できず、これらの層の間に
図6 完成した銀の馬車道、豊富付近の光景(出典:銀の馬車道ネットワーク協議会「プロジェクト未来遺産 銀の馬車道」)
薄い粘土層が挟まっているのが確認された(「銀の馬車道交流館」で調査断面を保存・展示している)。雨水が浸透するのを防ぐ工法ではないかと想像される。一方、翌年に姫路駅周辺の土地区画整理事業の現場で行った調査では、水田の上に10〜20cmの礫が混じった層が40cmほど築かれ、さらに2〜3cmほどの小礫が35cmほど積まれ、その上に固く締まった表層が確認できた。この2つの発掘調査から、道路が建設される地形を考慮して工法が選定されたことが推察される結果となった。
車道は生野の南郊の盛明橋で市川を渡ってその左岸を南下し、砥堀の生野橋で再度 渡河して飾磨津に向かう。これらを含めて馬車道には大小22橋が架けられた。5橋は木橋であり他は土橋であった。このうち難航を極めたのが橋長93間(約167.4m)の生野橋だったという。
 馬車道の完成後、ここに「馬車道修築」の碑が立てられた。高さ約1.4m。幅約0.7mの凝灰岩に朝倉の撰した文が刻まれている。碑文に曰く「延長十二里十五丁石ヲ畳ミ砂ヲ敷キ高低ハ平均シ川沢ニハ橋ヲ架シ夙夜怠ラス三周年ニシテ功ヲ成セリ衆人称ス我国未ダ嘗テ有ラザル也」と。誠にそのとおりで、明治10年に京津国道日ノ岡峠で
図7 朝倉の名を冠した盛明橋、現在のものは3代目 図8 現在の生野橋の近くに移設された馬車道修築碑
マカダム舗装による道路改修が1.8kmに渡って行われたことが知られているが、50km近くにも及ぶ大規模な近代的道路整備は極めて異例なものだった。いかに生野鉱山が重視されたかが伺い知れよう。なお、現在の生野橋は昭和43(1968)年に架けられた3代目で、当初の橋はこれより約120m下流にあった。碑も移設されたものだ。
車道がおおいに役割を果たしている頃、時代は急速に変化していた。鉄道網の整備が全国的に進められたのである。明治20年、飾磨港と生野を結ぶ「飾磨馬車鉄道」が出願された。その後、蒸気鉄道建設の機運の高まりにより社名を「播但鉄道」に変え、蒸気鉄道の計画を提出している。26年6月に免許を得て、山陽鉄道の南 清を招聘して建設工事を進めた。27年7月に姫路〜寺前間が開通し、28年1月には飾磨港〜生野間が全通した。
図9 生野駅の貨物支庫まで敷設された電気軌道(左、出典:参考文献1)と現在の廃線敷
整備から20余年で馬車道の時代は陰りを見せ始めた。そしてついに大正9(1920)年、馬車道は廃止され、同時に鉱山から生野駅まで電気軌道が敷設された。
 現在、もとの馬車道はかなりの部分が国道312号や県道西田原姫路線に編入されているほか、地域の生活道路としても利用されている。幅員5.4mという規格は現在でも機能を果たしうる値であり、そのまま舗装
口銀谷(くちかなや)交差点から盛明橋の間は馬車道として新設された区間、現在は落ち着いた町並みになっている 越知川に架かる観音橋はもとは大橋と呼ばれ 現橋より20mほど上流にあった、道標にある地名は 右たんば 左たじま たんご 神河町粟賀地区の銀の馬車道は集落の中心を通過する、沿道には難波酒店など古民家もいくつか残っている
馬車道の修築に伴って架設されたので馬橋という名が固有名詞になったもの、同名の橋があと3橋ある 市川に沿う区間は拡幅されて国道312号になっている、並行して播但道が走っているが大型車の割合が高い かつては水陸交通の中継点として栄えた屋形、銀の馬車道に面する家々は静かにたたずむ
生野橋東詰から南に残るかつての銀の馬車道、現在は市川の量水標に通じるだけだ 山陽電鉄飾磨駅の西で踏切を渡る銀の馬車道、両側には商店が並ぶ 銀の馬車道の終着点である飾磨津物揚場の跡、生野で焼いた煉瓦が馬車道を通ってここまで運ばれた
図10 銀の馬車道の現状
して利用されている箇所が多い。道路としての改良を受けずに往時の面影を残す箇所は畑河原池の西を通る箇所(標題の写真)と生野橋東詰の南側などごくわずか。
の馬車道が近代化遺産として認識されたのは比較的最近のことだ。平成16(2004)年、姫路西ロータリークラブが兵庫県中播磨県民局の協力のもとに馬車道を巡るツアーを企画した。これがきっかけとなって銀の馬車道という愛称が定着し、これを地域の資源として活かしていこうという動きが強まった。19年には「銀の馬車道プロジェクト」を推進する母体として商工会議所を初めとする民間団体と行政などが「銀の馬車道ネットワーク協議会」を作り、馬車道に関連する商品開発などを支援した。地域の交流の場やまちづくりの拠点として神河町に「銀の馬車道交流館」が開設されたのもこの年だ。24年には銀の馬車道プロジェクトは日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産」3)に登録。29年4月には、銀の馬車道と生野から神子畑(みこばた)鉱山・明延(あけのべ)鉱山・中瀬鉱山へと続く
図11 「銀の馬車道交流館」に展示されている馬車の模型、実物を知る人の記憶に基づき1/2の大きさで復元したという
「鉱石の道」とを合わせて「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」〜資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍〜」が文化庁により日本遺産4)に認定された。
 今や銀の馬車道は地域の歴史・文化の象徴を越えて、ツーリズムの振興や地域活性化のツールとして走り始めている。

(参考文献)
1.「生野銀山-日本とフランスの友好のために」(生野町中央公民館)
2.清原幹雄「生野銀山と銀の馬車道」(神戸新聞総合出版センター)
(2017.05.08)

1)明治政府は殖産興業を図るために3,000人もの外国人技術者を招いたが、その第1号がコワニェだった。

2) 参考文献2では、市川を就航していた舟は、加古川と同程度の長さ6間(約10.8m)、幅7尺(約2.1m)で、積載量は30石(約4.5t)と推定している。

3) わが国の歴史の中で育まれてきた文化や自然を未来に向けて継承するプロジェクトを顕彰するもの。なお、日本ユネスコ協会連盟とは、ユネスコの理念に共感して活動する民間団体で、国際連合の機関であるユネスコとの直接的関係はない。

4) 地域の歴史的魅力や特色を通じてわが国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するもの。文化財としての価値を評価するよりも、地域に点在する遺産をストーリーにまとめて一体的に発信することを重視する。