あだ
スペックが徒となった「播電鉄道」


田圃の中にわずかに残る「播電鉄道」の遺構
 国土を縦貫する大規模な鉄道が建設途上にあった明治時代、それから外れた地域では、その地の有力者により中小の鉄道が敷設される例が各地でみられた。播電鉄道もそのひとつだが、これの著しい特徴は、電化・標準軌という先進的スペックを採用したこと。ところが、起業者の意気込みとは裏腹に、この採用がネットワークの連続性を阻害し、かえって鉄道の命脈を縮めてしまった。その歴史をご紹介する。

野は「播磨の小京都」と呼ばれる落ち着いた城下町である。この町を特徴づけるのは、醤油や素麺の生産だ。龍野の醤油は、法燈国師が文永年間(1264〜75年)に書写山円教寺や瑠璃山東光寺を拠点として製法を指導していた素地があったところに、天正15(1587)年に円尾屋 孫右衛門らが本格的な生産を開始したのが始まりと言う。その後、寛文6(1666)年に原料の使い方を工夫した「淡口醤油」が開発され、信州飯田から移封(12年)されてきた脇坂 安政が他国にないこの醤油の生産を奨励したことから、全国に名を馳せるに至った。素麺については、当地の斑鳩寺に伝わる日記「鵤庄引付」の応永25(1418)年の条に「サウメン」の記述があることが知られるほど古くから生産されていたようだ。同業者の品質維持の意識が高く、慶応元(1865)年に素麺仲間46名が品質などを取り決める「素麺仲間取締方申合文書」を交わしていることが記録に残っている。この取り組みが成功して、龍野は優れた素麺の産地として名を成していった。これらの物産は、揖保川を下って網干港から京阪神や関東に送られた。
代は変わって明治の代になる。政府は早期の鉄道整備を痛感し、民間による建設を奨励した。そのひとつ、明治21(1888)年に創設された山陽鉄道(現在のJR山陽本線)は、同年のうちに兵庫〜姫路間の鉄道を開業し、翌年11月に龍野まで伸びた。しかし、竜野駅は中心市街地から4kmほども離れた揖保川町黍田(きびた)にあって、
図1 龍野電気鉄道の位置
龍野の人々にとっては使いづらいものだった。
 そこで、醤油や素麺の業者を中心とするグループにより龍野の市街地から揖保川沿いに竜野駅に達する軌間1,067mm、延長6.4kmの「龍野鉄道」が計画され、39年に免許を申請したが却下されてしまって実現しなかった。一方、龍野で醤油業・倉庫業・銀行業を営み代議士も務めていた堀 豊彦らが「龍野電気鉄道」を出願し、39年8月に軌道条例による特許を得た。県下では阪神電鉄に次いで2番目の電気鉄道だった。電圧550V、軌間はわが国で4番目となる標準軌(1,435mm)。網干港から觜崎までの14.3kmに加えて、糸井〜網干駅間の支線と龍野の醤油工場への引き込み線が計画されていた。軌道として建設されたが、路面に敷設したのではなく道路に沿って軌道敷を取得して敷設されたようだ。龍野・網干間の道路は、改修して「僅々一二歳ヲ出ズシテ既ニ道敷ノ狭キヲ訴フル」(電気鉄道敷設趣意書(明治37年12月))ほどだったからである。
 工事は、林田川の橋梁架設からスタートした。用地の大半は出資者の所有する土地であった上に、工事はロシア人俘虜を動員して順調に進んだと伝えられている。鵤(いかるが)に本社・火力発電所・車庫を建設し、運転手の訓練は京都電気鉄道で行った。42年1月に網干駅〜龍野町間5.7kmを開業、2月に龍野町〜觜崎間、3月に網干港〜糸井間が開通して全線が完成し、龍野は網干港や網干駅と結ばれることになった。
 また、堀らは大正2(1913)年に「新宮軽便鉄道」の許可も受けている。これは龍野電気鉄道の觜崎から新宮まで3.6km延長するもので、車両や動力は龍野電気鉄道から供給を受けるという、
図2 糸井駅付近の鉄道と沿線風景(明治末期)(太子町立歴史資料館の展示による)
同社と全く一体の会社であった。4年7月に開通している。
れらの供用により、「龍野の物貨は主として網干港から呑吐し旅客は専ら網干駅から出入する」(大阪毎日新聞兵庫縣付録「縣下の四十五都邑(6)」(大正4(1915)年5月13日)と言われるようになり、年間の輸送実績は龍野電気鉄道で旅客95万人、貨物3.7万t、新宮軽便鉄道で旅客19万人、貨物0.7万t(大正8年)を記録している。が、当初の予想には遠く及ばなかったようだ。赤字のために車両の補修に手が回らず「雨降りの日は電車の中でも笠が要る」(明治43年1月22日付け鷺城新聞)と揶揄されるありさまで、
図3 播電鉄道の輸送量の推移、大正4〜8年については龍野電気鉄道と新宮軽便鉄道の両線を使用する貨客はそれぞれに計上されている(太子町史編集専門委員会「太子町史」をもとに作成)
減便して経費節減を図りつつ、増資により負債を償還して経営を続けた。
 この場面で登場したのが伊藤 栄一1)だ。伊藤は、東播磨随一の豪農の家に養子に入り、豊富な資力でもって鉄道経営に乗出して“兵庫の鉄道王”と呼ばれた人物。堀らと面識があった可能性がある。伊藤はまたたく間に新宮軽便鉄道と龍野電気鉄道の株を買い占めて経営を掌握し、両社は「播州水力電気鉄道」に統合された(大正9年)。伊藤は経営再建に努力したようだが、彼の他の事業の失敗で債務を負った播州水力電気鉄道は、強制競売にかけられて谷口 節の手に落ち、さらに新会社を設立する原田 覚一に譲渡され、14年6月に「播電鉄道」が設立されて電鉄事業を始めた。会社の経営者はめまぐるしく変わったが、輸送量はほとんど変わらず、昭和3(1928)年の輸送実績は旅客107万人、貨物3.4万tを数えている。
かし、ここで播電鉄道に強力なライバルが現れる。国鉄「姫津(ひめつ)線」2)だ。同線は、姫路から出雲街道(現在の国道179号に相当)に沿って中国地方内陸を目指す路線で、昭和5年に姫路〜余部(よべ)間6.1km、6年に東觜崎まで11.7km、7年に播磨新宮まで4.3kmが完成した。龍野町に開設した本竜野から播磨新宮までほとんど播電鉄道に近接して敷設されたのに加えて、姫津線は播磨地方の中心都市である姫路に直通できるとともに網干駅での貨物の積み替えが不要になることから、貨客とも姫津線に流れて播電鉄道は大打撃を受けることとなった。やむなく8年に臨時株主総会を開いて路線の廃止と政府への補償の申請を決議。57万円余の補償を受けて9年12月に廃止となった3)
 それから約70年。一部に橋台の痕跡を残すだけで、播電鉄道の遺構を見つけるのは難しい。敷地の大部分は並行する道路に取込まれているようだ。
野電気鉄道の時代を含めて播電鉄道の不振の要因は、貨物輸送の見込み違いに帰するであろう。会社は最大で7両の電動有蓋貨車と20両の無蓋貨車を保有したようだが、輸送量が年間3万t余ということは、これらの貨車が1日1往復もしていない計算になる。
 誤算の原点は、貨物輸送の拠点を網干港と想定し、その後の鉄道貨物の興隆を見極められなかったことだ。その網干港が「年々土砂に埋れて(中略)今日の時勢に於て最早や港として命脈尽きんとしつつある」(「縣下の四十五都邑(7)」(大正4年5月14 日))状況に立ち至ったならばなおのこと、思い切って狭軌に改軌するなど国鉄との協調に力点を移す必要があったのではないか。
 会社も輸送の不振に手をこまねいていたわけではない。大正元(1912)年には本社に近い太子山に料亭・小動物園・遊具の整備を行い、夏季には「太子山納涼園」と称してビアガーデン・野外活動写真会・盆踊り・花火大会などを企画した。無蓋貨車に座席を設けて電飾した納涼客車も運行した。さらには、新舞子海水浴場の経営にも着手し、網干港から自社のバスで海水浴客を輸送することも行っている。しかし、肝心の貨物輸送の改善はとりたててなされたように見えない。結局は、龍野の人々の姫津線を誘致するという行動を招来して、播電鉄道の歴史は25年で幕を閉じることになったのである。
図4 井野原駅跡付近から北を望む、突き当たりに見える建物の位置に新宮町駅があった 図5 県道姫路新宮線が揖保川を渡る觜崎橋の直下に残る播電鉄道の橋台(右岸側) 図6 糸井〜網干駅間の水路に残る橋台 図7 播電鉄道が目指した網干港、もとはここに醤油会社の倉庫が建っていたという
(2015.08.17)

1) 伊藤は、兵庫電気軌道(山陽電鉄の前身)に敵対的買収を仕掛けた投資家として知られ、一般には鉄軌道事業を投機目的としか見ない虚業家としてのイメージが強いが、龍野電気鉄道の再建というあえて火中の栗を拾うようなこともしていることから、その人物像について再検討する必要があると考えている。

2) 山陰・山陽連絡のために計画された、姫路から津山に至る路線。昭和7年に播磨新宮に達した後は、9年に播磨新宮〜三日月(14.5km)と東津山〜美作江見(20.7km)、10年に三日月〜佐用(14.5km)、11年に佐用〜美作江見(9.3km)と順次 建設が進められた。現在は東津山〜新見間(旧「作備線」)を加えて「姫新(きしん)線」になっている。平成6(1994)年に山陽本線上郡と因美線智頭の間に智頭急行線が開業し、山陰・山陽連絡の機能はこちらに移った。

3) 播電鉄道は昭和4年からバス事業を開始しており、こちらは廃線後も継続していた。しかし、18年に戦時における交通統合の指令を受けて「神姫合同自動車」(現在の「神姫バス」)に買収されて播電鉄道は解散した。