"明治の隠れた偉業"、林田隧道

装飾のない林田隧道の北側ポータル
 明治初期の道路トンネルとしては、初代山形県令 三島 通庸(みちつね)が整備した「栗子隧道」(L=870m)が著名である。オランダ人技師 エッセルの指導を仰ぎ、明治14(1881)年に完成した。しかし、それは今は崩れている。それに対し、同じ年に完成した「林田隧道」は、規模では劣るものの、現在も道路として供用されている。地元の石工が独力で施工したこのトンネルを訪れて、工事を最後までやりとげた彼の強い想いを感じとってみよう。

図1 林田隧道の位置
庫県道川西篠山線は、国道173号と国道176号の間にあって、北摂地域と丹波地域を結ぶ幹線道路である。そのルートの大部分は猪名川の流れに沿っている。猪名川パークタウンから北に車を走らせて景勝 屏風岩を過ぎると、左から尾根が大きく張り出しているのが正面に見える。猪名川と県道はそこを右に回り込んで林田地区に達しているが、ここを左にとって楊津小学校からヘアピンカーブが続く津坂と呼ばれる道路を辿ると本稿のテーマである林田隧道が現れる。
 明治14(1881)年に完成した。管理者である猪名川町によると現在の延長は90.5mで、覆工の構造は、起点の木津側から順に鉄筋コンクリート製のボックスカルバート区間が9.7m、石積み区間が4.5m、鋼製支保工と鉄筋コンクリートによる覆工アーチ区間が68.5m、石積み区間が7.8mという構成である(図2)。このうち、ボックスカルバートは昭和59(1984)年の改修により継ぎ足されたものだ。
図2 林田隧道の現在の覆工の区分
覆工アーチもその時のものであり、それまでは突起する岩頭や軟岩が崩れた跡が残っていて難工事であった痕跡が見られたという。幅員3.6m、高さ2.8m。
 北側の坑口は標題の写真のような石造りだ。装飾のない簡素なつくりで、やや緑色がかかった凝灰岩と思われる石材が使用されている。地質調査総合センターが発行している地質図によると、木津以北の猪名川町域には「佐曽利凝灰角礫岩」が広く分布しており、おそらく現地で採取されたものと思われる。
「猪
名川町史 第4巻」に本トンネルに関する文書が掲載されている。柏原村の福井 作次郎ほか1名が差入れた誓約書で、弟である福井 伊之助が津坂の道路開削を1,175円30銭で請負ったが、見積り違いや予想外の手間が生じて請負金額に不足をきたしても自分たちで引受けるという内容である。請負金額にかなりの自信があったのであろう。
 しかし、この金額が類似のトンネルと比べてかなり低額であることはすでに指摘されている(http://www.
kyudou.org/KDC/tusaka/tusaka_03.html)。筆者は、かつて紹介した「京都宮津間車道」が宮津市の栗田(くんだ)峠を抜く「撥雲洞」(明治19(1886)年完成)と比較してみたが、規模から見て林田隧道の掘削量は撥雲洞の1/3ほどと思量されるのに対して
表1 林田隧道と撥雲洞の規模と工事費の比較
隧 道 名 延長(m) 幅員(m) 構造の概要 工事費(円)
林田隧道 80.8 3.6 12.3mは全周石積み、68.5mは素掘り 1,175.300
撥 雲 洞 126  4.7 側壁部は自然石、アーチ部は切石巻き 18,117.512
工事金額は1/15ほどであり、上記の指摘は肯首できるところである。
 果たして、施工者は工事費の不足に苦しんだ。だが、先の誓約があるため請負金の増額はならず、福井 作次郎、伊之助兄弟をはじめ柏原村の親類縁者が私財をなげうって事業を遂行した。責任感の強さには驚かされる。"明治の隠れた偉業"と言われる。
図4 路面から頂部まで同じような大きさの石が使われている
の逸話を踏まえて、改めてトンネルを見る。内部は線形も勾配も微妙に屈曲しており、少しでも掘りやすい所を選んで工事を進めたのだろうと想像される。苦労が偲ばれる。
 石積み区間には高さ25cmほどの切石が用いられている。
図3 微妙な屈曲を持つトンネル内部
路面から布積みにして頂部まで同じ大きさの石が使われており、側壁部とアーチ部に明瞭な違いは見られない。破砕帯や膨張性の地山を除けば、アーチ形に掘削されたトンネルは地山そのものが荷重を受け持つので、覆工に大きな力が働くわけではない。にもかかわらず、アーチ部にも大きな切石を用いているのが興味深かった。
トンネルの施工が明治時代の初期に地元の石工により行われていることに注目すべきだろう。日本人技術者・技能者が外国人の助けを借りずにトンネルを掘ったのは、明治13(1880)年に開業した逢坂山隧道が最初であった。その翌年に、おそらく専門教育を受けずに経験だけでこれだけの仕事を成し遂げた福井 伊之助の技量は評価されなければならない。
 伊之助の出身地である柏原地区は、猪名川町の最北端の山裾にあって、石積み棚田やまんぼと呼ばれる灌漑用横井戸が多い地区だという。伊之助はどのような思いを持ってこの事業に取り組んだのだろう。そして、完工のあとどんな生涯を送ったのだろう。少なくとも現在の住宅地図に柏原地区に福井姓の家は見えない。筆者の目には、栗田峠の開削に挫折し家屋・家財を処分して他郷に移らざるを得なかった売間(うるま)九兵衛の姿と重なる。
 林田隧道も撥雲洞もその例だと思うが、明治時代の公共インフラは、地域の篤志家の大胆な起業心と献身的な努力によるものが多い。それらが150年近く経過した今もインフラとして機能して地域を支えていることは感慨深いものがある。

(参考文献) 猪名川地域史料研究会「むつせ物語」(六瀬コミュニティ委員会)
(2024.03.03)