近鉄難波線
−大阪万博を契機に生まれた大断面機械掘りシールドトンネル

複線断面のシールドで建設された近鉄難波線
 2025年に開かれる大阪・関西万博でもインフラ分野でのイノベーションが用意されているようだが、1970年に開かれた大阪万博でもさまざまなイノベーションがあった。そのひとつとして、近鉄難波線におけるシールド技術に関する大いなる実験的挑戦を紹介する。

近の都市部でのトンネル建設では、しばしば「シールド工法」が用いられる。シールド工法とは、シールドと呼ばれる鋼製の筒を地中に押し込み、それによって防護された空間で掘削する工法である。1825年にテームズ川の水底トンネルで手掘りの
 図1 阪神高速道路大和川線で用いられたシー
  ルド機
シールド工法が採用されたのを最初とする。わが国でも羽越本線の折渡トンネルや東海道本線の丹那トンネルの掘削において一部の区間で試みられたが、湧水に遭って本格的な採用には至らず、本格的に使用されたのは昭和17(1942)年に開通した山陽本線の関門トンネルである。
 現在では、シールド機といえば図1のような「密閉型シールド」を指すだろう。これは前面に付いたカッターディスクが回転しながら地盤を削り、切削土はスクリューコンベヤなどで後方に運ばれ、同時にエレクターという装置がセグメントと呼ぶ円弧状の壁をはめ込んでトンネルを構築していく。
 しかしながら、このような密閉型シールドが実用化されるのは昭和50(1975)年頃からで、それまでは密閉されていない「開放型シールド」(図2)
 図-2 開放型シールドの模式図
であった。その初期のものは、人がシールド機の中に入り切羽に対面して削岩機などを操作して掘削する。作業員は、シールド鋼殻によって上方の土が崩落する危険からは保護されるが、切羽が崩れたり地下水が湧出するリスクは避けられない。このような空間に人を置くのを避けて機械による掘削が採用された最初は、昭和38(1963)年に行われた大淀送水管(大阪市水道局)の工事で、このトンネル外径は2.53mであった。翌年、地下鉄2号線(現在の谷町線)2工区(大阪市交通局)では、延長446m、セグメント外径6.8mのシールドトンネルの上り線は手掘りであったが下り線は施工者の提案で機械掘りを採用した。シールド機のコントロールに手間を要し、能率は手掘りと変わらなかったと伝わっている。
 一般にわが国の都市部の地盤は未固結で地下水位が高い。このような場所で開放型シールドを施工すると、砂質土地盤では地下水がトンネル内に流入してくるし、軟弱粘土地盤では切羽が押し出してくる。これに対応するためにはシールド内の気圧を高く保つ必要があった。しかし、地下水圧・土圧と圧気圧の分布が異なるため、たとえばシールド中央の地下水位に併せて圧気圧を設定すると、トンネル上半部では圧気圧が過大となって圧気が噴発する恐れがあるし、下半部では地下水の流入による切羽の不安定が生じることになる。これらを抑制するため、多くの場合、薬液注入1)などの地盤改良を併用して施工される。
畿日本鉄道(以下「近鉄」という)は、大正3(1914)年に開通した上本町〜奈良間を母体としている。大阪側のターミナルとなった上本町は上町台地上に早くから開けた市街地であったが、地下鉄が難波まで開通(昭和10(1935)年)するなどしたために難波が大いに繁華を見るようになり、上本町〜難波間の延伸が喫緊の課題となっていた。そこで、近鉄は、同じように難波進出を意図する阪神電鉄と共同して近鉄鶴橋から阪神野田までの軌道敷設を申請 (昭和21年) したが、大阪市はこれに反対して、両社の計画と全く競合する地下鉄5号線(現在の千日前線)の特許を申請した。そこで、23年に、阪神は西九条〜難波間3.8kmに区間を変更して申請を行い、近鉄も鶴橋〜難波間2.5kmの地方鉄道免許を申請した。その後、近鉄は、構造を高架式から地下式に、起終点を移動させて延長を1.71kmとするなどの変更を行っている。大阪市はこれにも反対したが、31年に設置された「都市交通審議会大阪部会」の答申に基づき、両社は34年2月に地方鉄道敷設免許を得ることができた。大阪市もまた5号線の特許を得た。
 近鉄では、ただちに「難波延長線建設準備委員会」を設置して、並行して建設される阪神高速道路や地下街との調整を進めた。そして、40年10月に起工式を挙行して上本町側から工事を開始した。難波線の工事で特筆すべきは、わが国で初めて複線断面で機械掘りシールド機を採用したことだ。
 開削工法ではなくシールド工法を採用したのは、街路の狭隘だ。本路線が導入される千日前通(都市計画道路泉尾
 図3 近鉄難波線が導入される都市計画道路泉尾今里
  線の地下利用計画
今里線)は、現在でこそ都市計画事業が完了して幅員が50mであるが、当時は21.8mであった。難波線の早期完成を図るためには、都市計画事業の進捗に影響されることなく既存の道路幅員の中に建設すべきと考えたが、街路は交通混雑が激しく、路面電車も大量の旅客を運んでいた。これらを阻害することは許されない。地表に影響を及ぼさないシールド工法しか選択の余地はなかった。
 単線シールドを並列するのではなく複線シールドとしたのも空間の制約だ。当時の技術ではシールド工事による地山のゆるみが避けがたく、2本のシールドの間にはシールドの直径と同じくらいの離隔が必要であった。となるとシールドは道路幅ぎりぎりに配置せざるを得なくなり、逆に沿道に変状を及ぼす恐れがある。よって、2本の単線シールドを計画するには導入空間が不足すると判断したのである。
 なお、わが国で最初の複線断面シールドは41年に大阪に実績がある。市営地下鉄4号線(現在の中央線)谷町四丁目〜森ノ宮間(延長890m、セグメント外径10.1m)で、地表の難波宮跡を保護するために採用された。この区間は地盤の堅固な上町台地にあたり、複線断面でも手掘りで施工できた。しかし、難波線は起点の上本町は上町台地にあるものの、終点の難波は地盤が軟弱で地下水位の高い沖積平野にあたる。開放型シールドでは切羽の安定が極めて重要であることは先に述べたが、断面が大きくなれば圧気圧を調整して切羽を保つ操作は飛躍的に困難になる。
 そこで、本工事では、「機械化シールド開発委員会」を設け、東京大学名誉教授 沼田 政矩(明治27(1894)〜昭和54(1979)年)、京都大学教授 村山 朔郎(明治44(1911)〜平成7(1995)年)両博士の指導の下に、望まれるシールド機について検討を重ねた。その結果、採用されたのは、土砂取り込み口を除いて前面を鋼板で覆うことにより切羽の大部分を閉塞したシールド機である。傾斜したシールド前面に取り付けられたカッターホイールの回転により地山を切削していく。この施工法なら、土質に合うように慎重に機械を設計すればきわめて計画的に作業を進めることができるものであり、開放型に比べて格段に施工の安全性が高いとされた。シールドの外径は10.0mになる。これを製作するための材料や工作機械が国内では得られなかったので、米国メムコ社(Mining Equipment Mfg. Co)に詳細設計と製作を依頼することに決めた。同社のシールド機は39年に東京都下水道神谷町3丁目工区で外径3.3mのものが使用された実績があったが、これほど大きいのは異例のことであった。
国から運ばれたシールド機は、上本町付近の社用地に設けた縦坑から地中に搬入され、ここで組み立てた。難波に向けて発進したのは43年9月1日であった。しかし、早くも9日には駆動機構に重大な損傷が発生し、機械の分解修理や部品の交換を行って11月3日に掘進を再開した。ところが14日にまたもや部品の割損によりカッターホイールが回転しなくなり、再び分解修理を行わざるを得なくなった。修理を終えて本格的な掘削に入ったのは12月15日だった。この後もたびたび機械の不調や予期せぬ地下水の湧出に遭遇しているが、初期の試練を乗り越えたことで反って掘削に対する自信がもてたそうで、試行錯誤も含めて機敏かつ柔軟に対応している様子が参考文献に克明に記録されている。冷静な筆致であるがドキュメンタリー読み物に負けない迫力ある記述である。
 図4 日本橋駅構築内を通過するシールド機(出典:
  参考文献)
 途中の堺筋との交差部では、万博関連路線である地下鉄6号線(現在の堺筋線)が事業中であり、先行的に開削工法で駅を作っておいて、その中をシールド機を通過させている。日本橋を発進した後は、地下水が毎分1,000?も噴出し、シールド内の気圧を上げるだけでは足らずに、井戸を80本も掘って地下水をくみ上げる措置を講じた。このようなトラブル解消に予想を上回る時間を費やした。そのため、当初予定していた44年内の開業はとうてい不可能な状況になり、45年3月15日の万博開会に間に合うかが問題となってきた。しかし、社長の佐伯 勇(明治36(1903)〜平成元(1989)年)は決して現場に発破をかけることはせず、「安全にやれ、事故を起こすな」とのみ言ったという。これで現場は冷静に解決案を考える余裕ができた(佐伯 勇「運をつかむ−事業と人生と」(実業之日本社))。こうして、シールドが難波に着いたのは12月30日。線路、電線路の敷設を昼夜兼行で行い、開会式当日に開業を果たしたのだった。
 顧みると、たびたびの不調にもかかわらず路面陥没や埋設管折損などの大きな事故に至ることなく工事を終えることができたのは、切羽がシールド前面のカッターホイールによりかなりの程度抑えられていたからに他ならない。このシールド機の威力は大きかった。
表1 シールド工法の形式分類                    
形 式 特     徴
開放型 全面開放型 切羽の全部または大部分が開放されているシールドであり、地下水位以下で作業するときは水圧に対して圧気圧でバランスをとる。切羽が自立しない場合は地盤改良などの補助工法を併用する必要がある。
ブラインド式
(部分開放型)
土砂取り出し口を除いてシールド前面を覆ったシールドを言う。カッターホイールによりある程度の山留め効果が期待できるが、圧気や地盤改良等の補助工法はやはり必要である。
密 閉 型 隔壁を有し、隔壁と切羽の間を加圧した泥水または泥土で満たすことにより切羽の安定を図る機械式シールドである。
工事で用いられたシールド機は「ブラインド式」と呼ばれる形式に分類されるもので、軟弱な地盤では圧気や地盤改良などの補助工法の併用を要するものだった。都市内で地下街や地下鉄網が充実してくると、トンネルはより深くなっていく傾向にある。昭和50年代に入り、従来の工法では掘削できない高水圧地盤において掘削作業の経済化と作業員の安全確保を図るために、切羽の後方を隔壁で密閉し切羽と隔壁の間を加圧した泥水や泥土で満たして切羽の崩壊を防ぐ密閉型シールド工法の技術革新が進んだ。現在ではほぼ完全に密閉型に置き換わっている。気圧をコントロールするよりもはるかに確実に切羽の安定が図られる。切羽に人が立ち入らないので、掘削機構や排土機構は完全にロボット化される。マシンメーカーの技術開発も重要だ。
 密閉型シールド工法の発展には、軟弱な沖積平野に都市を展開させているわが国の寄与が大きい。このシールド技術の高度化のスタートラインを設定したのが近鉄難波線における挑戦であった。

(参考文献) 近畿日本鉄道「近鉄難波線建設工事報告書」
(2022.06.03)
   

1) 凝固する性質をもった薬液を地盤中に注入し、地盤の強度や止水性を増大する工法。