「まんぼ」に込めた米作りへの情念

開削時の姿をとどめると思われる「草谷の廃まんぼ」
 マンボウ、この不思議なことばに初めて接したのは中学の時。「山側の停留場のうしろの方のマンボウから出てきて、国道を北から南へ横切って」とある谷崎 潤一郎の「細雪」の一節である。このマンボウの語源は潅漑施設である「まんぼ」または「まんぽ」であると言われているらしいが、筆者にはまんぼの語も耳新しかった。本稿では、そのまんぼを訪れて調べることとしたい。

説では、マンボウとは「小さい穴のような、人が辛うじて立って歩けるくらい」の「トンネルの短いようなもの」と紹介されているが、
図1 「細雪」に登場する平松町のマンボウ
行ってみると図1に見るように、幅・最大高さとも1.8mあまりにすぎない小さな煉瓦アーチ橋だった。上を通るのはJR神戸線である。この付近のJR線は盛土構造であるため横断可能な箇所が少なく、地元の人にはマンボウが重宝されているようで、人や自転車がひっきりなしに通っていた。ただし、当初から人の通行を目的にしていたのではなく、水路に蓋かけをして通行の用に供しているのである。西宮市にはここ以外にも2つのマンボウがあるが、いずれも元は水路であったと思われる。
 マンボウの語源について、作者の谷崎はオランダ語に由来すると説明しているけれども、調べたところオランダ語にはそれらしいものがないそうであるし、そもそも神戸〜大阪間の鉄道はイギリス人の指導により建設したもので、オランダ語の影響を考えるのは無理があるように思える。東播地方や北勢・西濃地方でトンネル状の潅漑施設を「まんぼ」、
図2 いなみ野の田園風景、麦畑にヒバリが上がる郷愁をそそる光景だ
「まんぽ」などと呼ぶ例が知られていて、これが転用されたのではないかと考えられているようだ。
んぼとはどんなものなのかを知るために稲美町を訪れた。稲美町は加古川と明石川に挟まれた高燥な地形で、古くからため池によって用水を確保していた。神輿を池に投げ入れる祭りで知られる天満大池は、白鳳3(675)年にまでさかのぼる歴史を持つという。当初は降水をため池に貯留して耕作していたが、江戸時代に入って新田開発が奨励されるようになっても、既得の水利権との激しい抗争の結果、新田が河川から導水することは非利水期にしか許されず、それを潅漑期まで貯留しておくことが必要だった。よって、新田開発に伴い著しく多くのため池が作られるとともに、ため池を水路で結んで水を余すことなく活用する工夫がされた。これらの連絡水路の中には、台地の下をくぐっているまんぼがいくつかあるようだ。
 稲美町では、ため池の景観を保全すべく平成14(2002)年から「ため池ミュージアム」が運営され、ため池についての研究が進められるとともに、それぞれの池に保存・愛護団体ができつつある。しかし、
図3 改築されて使用し続けられている「琴池下流のマンボ」の取水口
まんぼについてはまだ充分に調査が行き渡っておらず、その全体像を把握するのは困難だ。
 が、当地のまんぼには江戸時代にさかのぼると推定されるものもある。例えば、「琴池下流のまんぼ」(N:34゚44'44"、E:134゚54'57") は琴池から小池に流れ出る水路から取水して国岡地区に導く水路にある約170mのまんぼであり、その開削時期は国岡新村の開村時期(寛文2(1662)年)に重なるとも考えられている。このまんぼの地表はホームセンターと街路になっているが、その下を流れる水は今も活用されており、現在のものは図3のように水門と地下埋設管に改良されている(取水口付近の琴池も平成2年度から6年度にかけて改良が施された)。
 一方、往時の姿をとどめるものとして「草谷の廃まんぼ」(N:34゚46'08"、E:134゚57'10")が挙げられる (標題の写真)。取水口付近が埋もれてしまったため、却ってその後の手が入っていないのである。集落の背後の山裾に掘られた、人がかがんで通れるほど(高さ 約1m、幅 約60cm)の素掘りのトンネルで、山の向こうは小さな谷となっており、そこに築かれた池から取水していた。長さは約300mで途中に段差があるという。
 当地のため池やまんぼをはじめ、明治24(1891)年竣工の淡河(おうご)川疏水、大正8(1919)年完成の山田川疏水などの潅漑施設は、「地域住民の熱意と努力により進められた瀬戸内海沿岸の潅漑設備の歩みを物語る近代化産業遺産群」に指定され、次第に注目が集まっている。
勢地方から東濃地方にかけてもまんぼの多いところである。ただし、いなみ野のまんぼが池などの水源から導水する「通水路型」であったのに対し、当地のまんぼはそのほとんどは浸み出る地下水を集めて田圃に導く「横井戸型」である。いなべ市北勢町治田地区にあった鉱山(慶長18(16 13)年頃〜昭和初期)で坑内の湧水を坑口に引いていたことにヒントを得て、秘法とされていた掘削方法を農業用水の確保に応用したのが始まりと伝えられる。記録に残る最も古いものは寛永13(1636)年の完成である。また、最大のものは、安永4(1775)年にできた、いなべ市大安町にある「片樋のまんぼ」で、延長が約1km。現在でも約7haを潅漑している1)
図4 マンボの掘削に用いられた道具、手前から「唐鍬(とうくわ)」、「鶴嘴(つるはし)」、「掻出し」 図5 排土に用いられた道具、手前は「修羅(しゅら)」、左奥は「土かご」、右奥は「鋤簾(じょれん)」
 当地では大正時代までマンボ掘りをする人がいて、大安町にある「いなべ市郷土資料館」にはその道具が保存されている2)。また、「大安町史」(大安町教育委員会)には工法が図解で説明されている。それを要約してご紹介すると、@受水する田から溝を掘り始め、A人の背たけほどの深さになったら左右と上に石を積んで伏蓋とし、
図6 マンボ掘りの様子(出典:「大安町史」)
B充分に土被りがとれるようになると低い腰掛けに座った姿勢で小型のつるはし等を用いて横穴を掘り進む、C横穴が長くなるとズリの搬出が困難となるため、縦穴を掘って滑車等を用いて地上に搬出する、というもの。まんぼの行方を見定めてあらかじめ縦穴を掘り、そこから迎え掘りして工期を短縮することもあった。また、円滑に水が流れるように、竹を半分に割って両端以外の節をえぐったものを水準器として掘り進めたと言う。
 資料館を辞して北に1.5kmほど行くと片樋の集落である。「片樋のまんぼ」は町の文化財になっていることもあって、近づくと「まんぼ」と記した案内板がその位置を教えてくれる。出口は沈水していてまんぼの様子をうかがうことはできないが、
図7 見学坑から見た片樋のマンボ
内部を見られるように開口してある箇所があり(N:35゚07'11"、E:136゚31'59")、そこから降りて観察することができる。断面は草谷のまんぼとよく似た大きさ(高さ1.2m、幅0.8mくらい)だ。
 掘れば確実に水が得られる通水路型と異なり、横井戸型のまんぼは苦労の割には失敗も多かった。それでもこれを掘ろうしたところに、米づくりに懸けてきた先人の情念が偲ばれる。
て、いなべ市にはこのようなまんぼが数百もあるというが、大規模な用水路が建設された例もある。桑名に着任した本多 忠勝は、現在のいなべ市北勢町麻生田(おうだ)で員弁(いなべ)川から取水し、東員町八幡新田に至る延長12kmにわたる水路を計画し、寛永12(1635)年に完成。これを六把野(ろっぱの)井水(ゆすい)と呼ぶ。以来370年、まんぼに頼って取水している人が見ればたまげるほどの豊かな水を送り続け、
図8 今も員弁川中流の高台に豊かに水を送り続ける六把野井水
現在は関連するため池などの整備もあいまって2.2km2が受益している。
をマンボウに戻せば、いなべ市には珍しいマンボウがある。三岐鉄道北勢線 楚原(そはら)駅の北方にある明智川拱橋(N:35゚06'50"、E:136゚33'02")と六把野井水拱橋(N:35゚06'50"、E:136゚33'11")である。北勢線は桑名から北西方向にのびる軌間762mmという特殊狭軌の軽便鉄道で、大正3(1914)年に楚原まで、6年に阿下喜(あげき)まで開通した。両橋はコンクリートブロックを用いたアーチ橋で、5年に完成した。コンクリートをわざわざブロックに成型して使用したのは、現場打設の技術的信頼性が低かったからであろうか。明智川拱橋はスパン長7.01mの3連アーチ橋、六把野井水拱橋は9.14mの単径間アーチ橋で
図9 コンクリートブロックを使用したマンボウとして知られる明智川拱橋 図10 六把野井水拱橋はわが国で唯一といわれるコンクリートブロックによるねじりまんぽ
水路と約40゚の角度で交差する「ねじりまんぽ」であり、いずれも土木学会土木史研究委員会が刊行した「日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選」に登載されている。ねじりまんぽについては、稿を改めて紹介する。

(2009.05.07) (2009.05.29) (2010.05.06)

1) 片樋では上井水、下井水の2つの水路で源太川から水を引いていたが、水を漏らさぬようにL型の樋を設けていたことから片樋の名がついたという。しかし、水の絶対量の不足は如何ともしがたく、農民の窮状を見かねた当地の庄屋 富永 太郎左衛門が私財を投じてまんぼを開削することを決意。水を求めて工事を続けるうちに出費は莫大なものとなり、彼は破産した末に没した。それから80年後、安政の大地震で水量が著しく減じたため、二井 藤吉郎が水路の延長工事を行った。片樋地区では「庄屋墓地」に2人の庄屋を祀るほか、「間風顕彰之碑」を建てて業績を讃えている。また、7月には「まんぼ祭り」があり、先人の遺徳に感謝する行事が行われている。

2) これらの道具は必ずしもまんぼ掘りに特化したものではなく、農地の整備や用水路の維持に通常 用いられていたものである。