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図1 左岸側から見た木津川橋りょう |
回は、明治期の土木技術者で実業家・政治家でもある白石 直治をご紹介する。白石は安政4(1857)年に現在の高知県南国市の漢学者の家に生まれ、土佐藩校である「致道館」と横浜の「修文館」で英語を学び、さらに東京の「開成学校」英語科を経て東京大学理学部工学科で土木工学と応用地質学を修めた。卒業後、農商務省に勤務するなどした後、明治16(1883)年に官費留学生として渡米し、レンセラー工科大学(Rensselaer
Polytechnic Institute)でバー教授(William H. Burr、1857〜1937年)に師事する。バー教授は応用力学を講ずる傍ら、橋梁会社等の顧問を務め実務にも通じており、初代ルーズベルト大統領の技術顧問としてパナマ運河の指導に当たるほどに、斯界の権威者として知られていた。白石は教授のもとで土木工学を学び、フェニックス橋梁会社やペンシルベニア鉄道会社で実務を経験して、20年に帰朝した。帰国後は、帝国大学工科大学土木工学科教授に任じられ、21年に総長が主唱して設立された「工手学校」(現在の工学院大学)でも土木科を担当した。
んな白石に実業界に足を踏み入れるきっかけを提供したのは「関西(かんせい)鉄道」である。同社は21年に四日市市に設立された鉄道会社で、草津から柘植・亀山を経て四日市に至る鉄道を建設することとしていた。白石がその工事監督を依頼されたのである。彼は「學術上實地ノ研究ニ相成リ、従テ授業上ニ幾分ノ補益ヲ来ス」(南海
洋八郎「工学博士白石直治伝」)ので兼務を認めてもらいたいと願い出て、同社の嘱託として技術上の総指揮を執ることとした。彼は、しばらくは東京と四日市とを行き来する生活をしていたが、関西鉄道の事業に専念することを決意して23年に大学に辞表を提出。家族ともども四日市に移り住んで、折から同社が全力を傾注した四日市〜名古屋間の延伸事業を陣頭に立って指導した。
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図2 「伊勢神宮に便利」と訴える広告に掲載された木曽川橋りょう(明治
28年12月 1日付け「大阪朝日新聞」による) |
この区間で困難だったのは、木曽川と長良川・揖斐川を横断する長大橋であった。白石は建築課長
那波 光男を指導しつつ自らも設計に手を染めた。木曽川橋梁は200ft(約61.0m)の単線ダブルワーレントラス13連と120ft(約36.6m)単線プラットトラス1連、長良揖斐川橋梁は木曽川橋梁と同じダブルワーレントラス15連とプラットトラス1連という構成である。いずれも英国ウェンズベリー(Wednesbury)のパテントシャフト・アクスルトゥリー社(Patent
Shaft & Axletree co. Ld.)の製作によるもの。下部工は、切石とレンガを小判型に積んだ。基礎は井筒基礎を用いたが、地質が悪く施工に苦労したという。こうして28年11月に名古屋までの全通を果たした。
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図3 木津川橋りょうの100ftポニーワーレントラスと200ftプラットトラス(出典:鉄道総合技術研究所「RRR Vol.74,No.8」) |
次いで、関西鉄道は柘植から大阪への進出に着手した。ここでも大河原〜笠置間において木津川を約60゚の斜角で横断する橋梁が必要だった。白石と那波は200ftプラットトラス1連、100ftポニーワーレントラス2連、70ft版桁橋2連から成る橋梁を架設する。これも製作は前述のP社であった。下部工は切石と煉瓦であり、煉瓦は木津町で焼いたものを川舟で運び、石材は周辺から切出した(小野田
滋「鉄道と煉瓦」による)。基礎は直接基礎だ。30年9月に竣工し、11月から営業開始。
同社はさらに西に向かって建設を続け、31年11月には大阪の綱島(現存せず)から名古屋までの路線を構築するに至った。これを見届けた白石は、関西鉄道を辞して「九州鉄道」に移り、さらに「若松築港」の社長に就任(34年)して発展を遂げつつあった港湾施設の整備に力を尽くす一方、三菱から委嘱された和田岬地区の整備を担当して船渠や倉庫等の工事を指導した。そして、42年には郷里の「土佐電気鉄道」の調査に当たったほか、「猪苗代水力電気」を設立してその専務取締役に就任するなど、実業界で幅広く活躍した。次いで、45年には立憲政友会の党員になり高知県から立候補して衆議院議員に当選し、鉄道敷設法(大正11(1922)年成立)に「香川県下琴平ヨリ高知県下高知ヲ経テ須崎ニ至ル鉄道」を第1期線として盛り込むのに尽力した。しかし、大正7年に俄かに体調を崩し、翌年1月には予定されていた土木学会会長に就任したものの病状は回復せず2月に永眠した。
石の死後も鉄道は発展を続けたが、まもなくその中でひとつの変化が生じた。蒸気機関車の大型化である。わが国では輸入した蒸気機関車を研究して国産化を図り、貨物用に9600形(大正2年製造開始)、旅客用に8620形(3年製造開始)が開発されていたが、第一次世界大戦(3〜7年)後の好況による輸送量増大に伴い、さらなる性能向上が必要となったのである。そこで、従来よりひと回り大きくした貨物用のD50形(12年製造開始)と旅客用のC51形(8年製造開始)が量産されることになり、各地の幹線に配備されていった。
鉄道の橋梁は機関車の荷重をもとに設計しているので、機関車の大型化は橋梁の再設計の必要を意味した。その結果として、この時期、長大橋の架替えや中小橋の補強が全国で行われた。白石の設計した橋も例外ではなかった。木曽川橋、長良揖斐川橋は昭和3(1928)年に撤去され、ちょうど桑名〜名古屋間の建設を企画していた「伊勢電気鉄道」にそっくり払い下げられた1)。木津川橋においても200ftプラットトラスは2年に撤去されて「永平寺鉄道」(福井県)鳴鹿(なるか)〜東古市間の十郷用水橋梁2)に転用された。
それに先立つ大正14年、2連の100ftポニーワーレントラスは、アーチ形の部材を追加するという大胆な補強を受けた。
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図4 架替えを間近に控えた200ftプラットトラス、新しい桁が手前の足場に組立てられている(出典:淀屋書店「鋼構桁橋建設及架渡作業写真帖」) |
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図5 補強工事中の右岸側100ftポニーワーレントラス、ゴライアスと呼ぶ移動式門型クレーンを使用して列車を通しながら施工している(出典:同左) |
これにより、本橋はトラス桁とアーチの両方の性質を有する中間的な橋梁になったわけだが、
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図6 下部工は当初の姿を残す、手前の上部工は補強された100ftポニーワーレントラス(右岸側)、奥は架替えられた200ftワーレントラス |
この形式を考案者(Josepf Langer、1816〜 ? 年)の名をとって「ランガー橋」とよぶ。彼が1881年に提案したものだが、わが国での新設橋での採用は、木津川での補強より7年後に田中
豊3)(明治21(1888)〜昭和39(1964)年)の設計による総武線隅田川橋梁でアーチと版桁を組合せたのが最初だ。
わが国で明治期に建設された英国式の橋梁は、その後の荷重条件の変更により架け替えられるケースが多かったが、白石らによる木津川橋梁のポニーワーレントラスは、橋梁の形式を変えるほどの補強を行って使い続けるという傑出した発想により、120年余の長寿を重ねている。それができたのも元の設計がしっかりできていたからであろう。構造物の長寿命化の希有な例として紹介しておく。 |
(2019.03.18) (2020/01.26) |
1) 伊勢電気鉄道は疑獄事件のために工事着手に手間取り、後を継いだ関西急行電鉄により13年に木曽川橋梁と長良揖斐川橋梁に転用された。戦後、近鉄名古屋線として営業していたが、昭和34(1959)年の伊勢湾台風を契機として、名古屋線を大阪線と同じ標準軌に改軌して名阪間の直通運転を図る事業が促進されることになり、本橋は撤去された。
2) 大正13(1924)年に設立されて金津(現在の芦原温泉)〜永平寺(現存せず)間24.6kmを結んでいた鉄道で、昭和19(1944)年に「京福電気鉄道」に合併して同社の永平寺線となった。しかし、乗客の急速な減少に勝てず、44年に木津川から転用された200ftプラットトラス橋を含む金津〜東古市間を廃止。残された東古市〜永平寺間を越前本線の支線として運行したが、京福は平成12(2000)年12月から13年6月の間にたて続けに正面衝突事故を起こして経営継続を断念。県の第3セクターたる「えちぜん鉄道」が施設の譲渡を受けて営業することとしたが、採算の悪い永平寺線は復活しなかった。なお、鳴鹿〜東古市間には九頭竜川を渡る200ftボウストリングプラットトラス橋(「ボウストリング」とは、トラスの上弦材と下弦材が弓(ボウ)と弦(ストリング)のような形状になっていること)もあったが、こちらは明治28(1895)年に豊州鉄道(現在のJR田川線)が崎山〜油須原間の今川に架けたのを昭和4(1929)年に転用したもの。ドイツのハーコート(Harkort'sche Fabrik)社の製作であった。
3) 田中 豊は、長野市に生まれ、大正2(1913)年に東京帝国大学工学科大学土木工学科を卒業。鉄道院等を経て関東大震災(12年)の後は復興院土木局橋梁課長として隅田川を始めとする多くの橋梁の建設全般に指揮を執り、多大な業績を残した。外国の先進の技術を積極的に取り入れたことが特筆される。同時に東京帝国大学教授として技術者の養成に当たり、戦後は本州四国連絡橋技術調査委員、土木学会会長等を歴任している。当時の最先端の橋梁技術の結晶ともいうべき永代橋(大正15(1926)年)や清洲橋(昭和3(1928)年)は重要文化財に登録されている。土木学会が優れた作品を顕彰する「田中賞」は彼の名を冠したもの。
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