関宮ループ橋・但馬トンネル

雄大な曲線を描く関宮ループ橋(出典:参考文献)
 国道9号は、京都市下京区を起点として日本海沿岸を通って下関市に至る主要幹線道路である。このうち、京都府から兵庫県北部を経て鳥取県までの区間は、自然の障壁に囲まれた山間の諸地域をいくつもの厳しい峠を越えながら国道が結んでいる。他に交通手段を持たないこれらの地域が他地域と交流して発展から取り残されないためには、道路の改修が不可欠だ。本稿では、先進的な技術で難路の克服を果たした関宮ループ橋と但馬トンネルを紹介する。

化の改新で律令制度を施行したわが国では、都から諸国に向けて道路が整備された。山陰道もそのひとつで、都と丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の8国を結び、平安時代には支路も含めて延長は608km、官吏や使者が馬を乗り継ぐ駅が37あった。
図1 丹波・但馬国における古代山陰道のルート

 そのうち、近畿地方のルートを見ていくと、老ノ坂峠を越えて丹波国に入った山陰道は、大枝(おおじ)・野口(ののぐち)・小野・長柄・星角(ほしずみ)・佐治の各駅を辿りながら北西に進み、遠坂峠を越えて但馬国に続く。但馬国の最初の駅は、朝来(あさご)市山東町粟鹿(あわか)にあったとされる粟鹿駅であり、郡部(こおりべ)駅を経て養父(やぶ)市関宮町八木谷に比定されている1)養耆(やぎ)駅から峠を越えて射添(いそう)駅に向かった。射添駅は美方郡香美町村岡区川会に比定されている(付近に「射添小学校」など射添の地名が残る)。ここから面治(めじ)駅を経て蒲生峠を越えて因幡国に達する。なお、この区間の山陰道の特徴として、古代の道路が都と諸国の連絡を目的としていたのに、丹後国と但馬国の国府を通っておらず、両国府に迂回する支路が設けられていたことが挙げられる。
 古代の駅路と現代の高速道路のルート選定の類似性に気づいたのは武部 健一2)の大きな業績であるが、但馬国の山陰道はかなり状況を異にする。すなわち、朝来市和田山から山陰道に併走してきた北近畿豊岡道は養父市八鹿で分かれて、円山川に沿う平地を通って但馬国府があった同市日高から豊岡市に向かう。
図2 関宮ループ橋と但馬トンネルの位置
また、鳥取県で高速道路の路線番号E9を持つ鳥取宮津舞鶴道は、岩美郡岩美町で山陰道と分かれた後は国道178号となって、豊岡市から勾金(まがりかね)駅があったとされる与謝野町を経て京都縦貫道に接続することになっている。
 このことから、養父市から岩美町の間で山陰道に併走するのは国道9号だけであって、これに並行する高速道路が伴っていない。国道の幹線道路としての使命は格段に大きい。本稿で取り上げる関宮ループ橋と但馬トンネルは、この区間において養父市関宮と香美町村岡区福岡の間にある八井谷峠を越える位置にある。昭和33(1958)年6月に着工し、9年の歳月を費やして43年3月に完了した。
区間が開通するまでの国道は図4のBのルートであって、関宮から八木川に沿って西に進んで出合から大野峠(H=448m)を越えて福岡に至った。このルートが整備されたのは明治32(1899)年のことで、それまでの八井谷峠(H=498m)を越えるAのルートから付け替えられたものであった。
図3 片岡 寿左右衛門の功績を記念する碑(出典:(公財)但馬ふるさとづくり協議会「T2」vol.57)
急傾斜な岩盤を削って幅員12尺(約3.6m)の道路を新設する工事は、たいへんな困難を伴ったと伝わる。関宮村の村長であった片岡 寿左右衛門が、村の西部の振興を図るため国道をこのルートにするよう提議したといい、その功績を記念する碑が建てられている。
 とはいえ、村長ひとりの意見で国道が付け替わるものでもあるまい。明治32年と言えば、中国で義和団が蜂起した年だ。その後、ロシアは義和団の平定を口実に満州に出兵して事実上の占領状態とした。日本は、ロシアの南下を阻止するため、日英同盟を結んで対抗した。両国の対立は37年の日露戦争へと続く。こうした国際的緊張下にあったのが32年だった。わが国は日本海沿岸の防衛力を強化するのが急務であったと思われる。しかし、山陰地方では、
 凡 例
 A:明治18(1885)年から明治32(1899)年までの国道
 B:明治32年から昭和43(1968)年までの国道
 C:昭和43年以降の国道
図4 関宮〜福岡間の国道ルートの変遷とその縦断勾配
軍事行動に有用な鉄道の建設が遅れていた(山陰本線の京都〜出雲今市(現在の「出雲市」)の全通は明治45年)。代わりに道路の整備が急がれたのであろう。軍に関連する重量物の運搬のため、距離は5kmほども長くても勾配の緩やかなこのルートが選ばれたと考えられる。
在の国道9号は、明治18(1885)年の内務省告示第6号で初めて国道が布達されると同時に路線指定されているが、32年に整備された状態が長く続き、近代化のスピードは遅かった。昭和31年に、近畿地方建設局豊岡工事事務所(当時)が、管内の国道9号を「但馬国道」と名付けて一次改築3)の調査を開始した時の様子は、「それぞれの峠は山道という表現がぴたりとくる様な現況であった。幅員は狭小で(最少3m、平均4m)
表1 但馬国道で採用された構造基準(第2種山地部)
項  目 数  値
設 計 速 度 50km/時  
道 路 幅 員 7.5m  
最小曲線半径 100m(特例30m)
最急縦断勾配 6%(特例8%)
屈曲は多く、ヘヤピンカーブが連続する状況で勾配も急(最急10%)で対向車があるとどちらかがバックしなければ離合できない状態であった。冬季には積雪になやまされ、そのために交通途絶の状態に追い込まれ、あるいは尊い人命を失った」(近畿地方建設局豊岡工事事務所「たじま30年のあゆみ」)と表現されるものであった。
 但馬国道は、一部を除き道路構造令の第2種山地部の規格で計画された。この中で、関宮〜福岡間のルートは距離が短い八井谷峠経由に戻され、
図5 延長1,256mの但馬トンネルの南側坑口、車高制限バーがストックの形をしている(出典:参考文献)
関宮を出た国道は高速道路を思わせる直線の線形で八井谷峠を目指す。やがて見えるのは関宮ループ橋。勾配を緩やかにするため、関宮町八木谷地区に当時としては珍しいループ橋を設けたのだ。R=50mで、八木谷小橋(L=18m)、蛇渕橋(L=137m)、矢井原橋(L=95.7m)の3本の橋で構成されている。これで、約25mの高度を稼いだ。続いて、八井谷峠を但馬トンネル(L=1,256m)で抜いた。この長さは、当時の近畿地方建設局管内で最長であった。これにより最高点の標高は約400mとなり、積雪の影響を軽減できた。スキー場の多い地域で、車高制限バーがストックになっている。
速道路にも匹敵する最高の技術を投入して建設された但馬国道は、但馬地域の生活の改善と産業・経済の発展に貢献した。
図6 但馬トンネルにある但馬国道竣工記念碑(出典:参考文献)
この竣工を記念して、42年3月に、但馬トンネルの入口に記念碑が設置された。そこに記された「指天 但馬国道竣工記念」の文字は三野 定4)のもの。「自然の障壁に閉ざされ、文化の谷間に低迷し、後進地の宿命を背負ってきた但馬が、近代的道路によって天頂に向かって躍進する道である」とある。
 この表現は単なる美文ではなかった。その一例を挙げよう。関宮ループ橋・但馬トンネルが通行できるようになった41年ころから、トンネルの北側にある村岡町大笹地区では「ハチ北高原スキー場」の開設が検討され、43年に本格オープンした。これまでは、地区の男性は、雪に閉ざされる冬季には杜氏として出稼ぎに出るしかなかった。それが、本道路の開通で国道9号の最高点が従来の標高448mから約400mに下がって通年交通が確保さた結果、これまで災厄だった雪を観光産業に活用することができたのである。ハチ北高原では、44年にプロスキーヤーとして著名な三浦 雄一郎を講師に迎えてスキー学校を開校し、45年にはハチ高原と行き来できるようリフトを増設し、併せて民宿・ホテル・駐車場を整備するなどの積極的な投資を行い、現在では近畿で随一の規模を誇るスキー場に発展している(https://www.sankei.com/article/20150901-VW4JXGUE45ITPG6CVJKVQZ5J2Q/)。

(参考文献) 養父市「まちの文化財(202)但馬国道の竣工記念碑」(https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/
shakaikyoiku/1/1/8637.html)

(2023.04.20)(2023.12.07)


1) 養耆駅の位置については、これを養父市八鹿町八木とする異説がある。しかし、もしそうだとすると、大宝律令に駅の間隔は30里(約16km)を目安にするとあるのに、隣接する射添駅から約26km、ふたつ離れた粟鹿駅から約23kmとまことにバランスの悪いことになる。逆に、八木谷だとすると、それぞれ約18km、約31kmと妥当な値になる。よって、本稿は養耆駅を八井谷峠の登り口にあたる八木谷にあったとする説を採る。

2) 武部 健一(大正14(1925)〜平成27(2015)年)は、昭和23(1948)年に京都大学を卒業後、特別調達庁、建設省関東地方建設局の勤務を経て、昭和31(1956)年に日本道路公団に入って名神高速道路を始め各地の高速道路の建設に携わった。その過程で古代の道路と高速道路のルート選定が類似していることに気づき、道路史の研究に打ち込み古代の駅路・伝路を克明に調査した。

3) 未改良の道路を、道路構造令の規定を満たすように整備すること。

4) 三野 定(大正7(1918)〜平成13(2001)年)は、昭和16(1941)年に九州帝国大学を卒業して内務省に採用され、兵役や留学の後、建設省道路局高速道路課長、同企画課長、日本道路公団高速道路第三部長、近畿地方建設局長、日本道路公団理事などを歴任した。従軍中の戦記を「わが青春のビルマ」に著したほか「海の彼方の道つくり」など道路関係の著書も多い。