近世高砂湊の遺構群 |
県立高砂海浜公園にある3代目工楽(くらく)松右衛門らの名を刻んだ祠 |
レトロな町並みが残る高砂市街の中でひときわ著名なのが工楽家旧宅だ。江戸時代、工楽家は3代にわたって湊の修築を担当してきた。近年、「高砂みなとまちづくり構想」のもとに歴史的資源の保全・再現が図られているが、その中で高砂湊の歴史性が注目されている。本稿では、近世に加古川水運と瀬戸内海航路の中継点となった高砂において、湊が辿った足取りをふりかえる。 |
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古川は、朝来市に接する粟鹿山(あわがさん、H=962m)に源を発し、幹線流路延長約96km、流域面積1,730km2の一級河川である。この下流部には、河口付近の右岸側に高砂市が、
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図1 加古川下流部の交通網 |
やや内陸の左岸側に加古川市があり、それぞれを通る2本の東西方向の交通軸が認められる。県道明石高砂線や山陽電鉄などで構成される軸と、国道2号やJR山陽本線などで構成される軸である。このうち、後者は、古代の山陽道も通っている伝統的な交通軸だが、前者はそれよりも新しい。古代から中世にかけて、加古川は山陽道が渡河する付近から下流はいくつもに分流し、現在の伊保港あたりまで広がって多くの砂州を形成していた。河口に高砂泊というのはあったが、砂の堆積が多く1)、平安末期でも瀬戸内海を航行する船は葦が深くて接岸できなかったという2)。加古川河口の地が発展するのは近世以降のことになる。
加古川の流域は東播磨地域の広い範囲に及び、沿川に多くの恵みをもたらしてきたが、もとは岩場が多く筏も通せない川だったようだ。天正11(1583)年に豊臣秀吉が大坂に拠点に日本を支配するようになると、経済の中心は京都から大坂に移って諸国の物資は大坂に運ばれるようになった。これに対応するために、加古川を舟運に利用することが注目されるようになった。
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図2 加古川の舟運に係る遺構など |
滝野村(加東市)大庄屋の阿江与助は、木下家の家臣に命ぜられて船の通行を妨げる河床の岩盤を開削し、代わりに舟運の独占権を与えられた。その遺構としては、市場(小野市)に残る流紋岩塊開削(文禄3(1594)年)の遺構や新町(加東市)に残る船着場(慶長10(1605)年)の跡が知られる。こうして、慶長11年には、途中の闘竜灘3)での積み替えは要したが、河口から本郷(丹波市)まで約65kmの通船が可能となった。船底の浅い高瀬舟が用いられた。
こうなると、加古川の最下流に位置する高砂は、加古川舟運と瀬戸内海航路の中継点としてにわかに重要性が高まった。播磨52万石の領主となった池田輝政は、姫路城に続いて、加古川河口の右岸側に高砂城を築城し、慶長17年に完成させた。同時に、加古川が城下の東を流れるように整備し、堀川(高砂川)の開削、百間蔵の設置、港の築造を行った。しかし、20年に徳川幕府から「一国一城令」が発せられ、高砂城は破却されてしまう。元和3(1617)年に姫路藩主となった本多忠政は、城の跡地に高砂神社を戻し、その周辺の城地を町割りして近隣から移した町人たちに屋敷地として与えた。これにより、高砂は商業都市に生まれ変わることになった。
加古川流域には、姫路藩のほか天領や諸大名の所領が入り組んでおり、その年貢米はいずれも舟運により高砂に運ばれていた。高砂湊は経済的には播磨第一の湊に成長した。しかし、加古川はたえず上流から土砂を運んでくる。藩は土砂が堆積すると川浚えを行っていたが、港の機能は徐々に減退していた。これを打開するために姫路藩から指名されたのが(初代)工楽
松右衛門だった。
右衛門は、寛保3(1743)年に高砂の漁師の家に生まれ、若くして兵庫津に出て回船問屋の御影屋
平兵衛に奉公して船乗りをしていた。40歳の頃に御影屋から独立し、自らの船を持って回船業を始め、兵庫津の豪商
北風 荘右衛門と組んで日本海沿岸や
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図3 高砂神社にある(初代)松右衛門の像(左)と十輪寺にある塚(右) |
蝦夷地を中心として活動した。この間の顕著な功績として「松右衛門帆」4)の発明がある。
各地の湊を巡るうちに築港の長短所などを認識するようになったのだろう、やがて湊の普請にも関わるようになった。まず、手がけたのは蝦夷地の択捉と函館の湊で、これらの功績により幕府から、工夫を楽しむという意味の「工楽」の苗字を賜った。
文化4(1807)年に蝦夷地御用を解かれた松右衛門が兵庫に戻って回船業を営んでいたところ、ここに姫路藩から修築の命が来たのである。翌5年から、松右衛門は、堀川を浚渫するとともに、南へ約1kmの「波戸(はと)道」と呼ぶ石積みの堤防に町場を設け、その沖に「一文字」、東に「東風請(こちうけ)」という2本の波戸(防波堤)を築いて、これらに囲われた堀川の河口部を新たに湊とした。工事には、彼が蝦夷地の築港で開発した石船、砂船、ろくろ船、石釣船などが使われた。波戸道の突端には台場を築き高灯籠を設けて船の出入りの便を図った。これが完成するのは7年。松右衛門は、藩主から金10両と五人扶持を与えられ、
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図4 昭和の初めまでは近世の港湾施設がよく残っていた(大正12年測図の旧版地図に記入) |
「御水主並(おかこなみ)」として湊の管理をゆだねられている。これを機に、松右衛門は居宅を兵庫から高砂に移した。
その後、松右衛門は、鞆の浦(福山市)の築造などにかかわり、文化9(1812)年に高砂の自宅で亡くなった。初代の養子となり跡を継いだ2代目松右衛門も、姫路藩から御水主並の職を与えられた。彼は、高砂湊の改修に加えて新田開発も進めた。文政2(1817)年に、波戸道の西の沿岸に「新田堤」を築いて海水の侵入を防いで内陸に新田の開発を開くことを願い出、認められて工事にかかり8年に完成して検地を受けた。「宮本新田」とよぶ。嘉永3(1850)年に亡くなり、その子が3代目となって湊の管理を引き継いだ。
3代目松右衛門は、2代目が開いた新田の沖で初代が築いた波戸道の西側に新たな湊を築造しようと考え、波戸道の西にそれと平行な147間(約268m)の防波堤を築いた。工楽家に湊の改修に係る文書が残されており、備前宮浦(岡山市南区)から石工を招き、小豆島などから運んだ花崗岩を用い、裏込めには竜山石5)が使われたとある。風波を防ぐために石垣は2段に積み、突端が東に折れる形になっている。併せて、嘉永期(1848〜49年)に築造されていた「西波戸」から東西に合計105間(約192m)の防波堤を東西に設けて初代が築いた波戸道と連結し、15間(約28m)の開口部をもつだけの囲われた海域を作った(文久4(1865)年)。この新港を「湛保(たんぽ)」と呼ぶ。これにより高砂湊は波戸道の西側にも拡張されたことになる。湛保には大型の船の入港が可能で、松前などから荷を積んだ船が来航したという。
工楽家が高砂湊の修築に励んでいる間にも時代は大きく変わりつつあった。嘉永7(1854)年にロシアの戦艦が大阪湾に侵入する事件があり、姫路藩は高砂湊に砲台を設けている。慶応4(1868)に成立した明治政府が矢継ぎ早に実行した経済政策により江戸時代から続く特権的商人は急速に衰えた。工楽家も、港湾整備に多額の投資をしたままそれを回収するすべを失った。3代目松右衛門は、持病と老齢を理由に仕事を辞退し(明治7(1874)年)、工楽家は高砂湊の修築から離れていった。
運の中継点としての高砂の経済基盤を崩壊させたのは、鉄道である。明治21年に設立された「山陽鉄道」(現在のJR山陽本線)は、その年のうちに兵庫〜姫路間を開通させ、その後も西へ西へと路線を伸ばしていた。山陽鉄道は、瀬戸内海航路との競合を強く意識し、ルート選定に当たっては高速性を重視したのだが6)、それが選んだのは国道2号などと並走するルートであった。
さらに、大正2(1913)には、播州鉄道(のちに「播丹鉄道」に事業承継、現在のJR加古川線)が加古川町〜西脇(平成2(1990)年廃止)間33.0kmと加古川町〜高砂口(翌年に延伸のため廃止)間4.7kmを開通させた。この鉄道は明確に加古川水運の代替を狙ったもので、これによりもともとあまり効率的ではなかった水運は大打撃を受け、沿川の物資は鉄道で加古川に集まることになった。
高砂の商業の衰退は決定的になり、代わりに町は工場誘致に力を入れる。今では、高砂の沿岸地域は
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図5 3代目松右衛門が築いた防波堤の先端部(左、高砂市教育委員会提供)とそこに組み込まれた舟つなぎ石(右) |
播磨臨海工業地帯の一角を形成し、海岸は企業のものになった。
浪の影響を受ける波戸などはしばしば補修されるものであることに加え、沿岸が工業用岸壁として整備されていることから、近世の高砂湊の遺構を見る機会は少ない。その中でも、3代目松右衛門が築いた防波堤のうち先端の屈曲した部分が形を留めている。ここに2本の舟つなぎ石が組み込まれて、
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図6 3代目松右衛門の名が刻まれた祠の石版 |
うち1本には「諸問屋柳長」という商人の名が刻まれている(図5)。また、波戸道にあった祠が県立高砂海浜公園の南端のかつての砲台のあたりに移設されており(標題の写真)、これには「湛保普(請)」の石版がはめ込まれて工楽松右ヱ(門)らの名が刻まれている(図6)。また、工楽家旧宅に面する南堀川では、駐車場整備に伴う発掘調査で、荷物を陸揚げする際に用いる階段状の護岸(雁木)が18世紀後半から19世紀前半の陶磁器などとともに出土し、工楽家が建築されたのと変わりない時期の遺構と考えられている。現在は復元されて
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図7 復元された南堀川の雁木、最上段と最下段の石段は元のものだという |
一般に展示されている(図7)。
さらに古く松右衛門の修築以前の高砂湊の遺構としては、寛政11(1799)年に建てられた常夜燈が知られている(図8)。もとは高砂神社の鳥居の南の海岸を望む地にあったのを境内に移したものだという。
標題の写真を見てもわかるように、高砂港の石積みは箇所によって石の整形の程度や積み方などが大きく異なる。この中には近世のものが残っているかも知れない。石材の産地の特定などの研究が進むことを祈念して筆を擱くことにする。
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図8 高砂神社に移設された高砂湊の常夜灯 |
(謝 辞) 本稿の作成に当たって高砂市教育委員会のご教示をいただいた。
1) 高砂の地名は、砂が盛り上がった状態を指す「たかいさご」が転訛したものと言われている。
2) 源 通親(みちちか)が記した「高倉院厳島御幸記」には、治承4(1180)年に高倉上皇が厳島神社に行幸する際、高砂泊に回漕されてきた上皇の船が接岸できなかったため、はしけを3艘つないで輿を船に移したという記事がある。
3) 明治6(1873)年に生野鉱山の技師ムーゼらの指導によりダイナマイトでの開削が行われ、積み替えなく航行が可能となった。
4) 当時は木綿布を2枚重ねて縫い合わせた「刺帆(さしほ)」が使われていたが、これは柔軟さに乏しく濡れた際には重くて扱いにくいという難点があった。松右衛門は、通常より太い糸を撚りそれを縦横2本ずつ使って織るという独特の帆布を発明した(天明5(1785)年)。松右衛門は「凡そ其の利を究るになどか発明せざらん事のあるべきや」として技法を公開したので、松右衛門帆は瞬く間に全国に普及した。
5) 竜山(たつやま)石とは、高砂市北部の生石(おうしこ)神社周辺で採取される凝灰岩。古墳時代に採石が始まり、現在も西日本の各地で流通している。
6) 「梨ヶ原地区の山陽本線煉瓦拱渠群」の稿を参照されたい。
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