だ い ど
第一大戸川橋りょう

プレストレストコンクリートの鉄道橋への適用

信楽高原鐵道の勅旨〜玉桂寺間にある「第一大戸川橋りょう」
 コンクリートは自由な造形を可能とする優れた構造材料ではあるが、引張りに弱い特性を持つ。これを補うために、引張り力を鉄筋に分担させる鉄筋コンクリート(以下「RC」という)の技術が発明されたことについてはすでに紹介した。本稿では、コンクリートの特性を補うもう一つの方法であるプレストレストコンクリート(以下「PC」という)について紹介しようと思う。

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Cとは、コンクリート部材に強く引張った(これを「緊張」という)鋼材を挿入することによりコンクリート内部に圧縮力(プレストレス)を作用させておき、外部から部材に引張り力が働いても内部ではこれと打ち消しあって引張り力の発生を抑制するというものだ。この技術は、鉄筋コンクリートの発明から30年ほど遅れてコンクリートのひび割れ対策として着想されたといわれる。フランスやドイツで研究が進められていたが、フランスのフレシネー(Eugene Freyssinet,1879〜1962年)が1926年に理論をまとめて特許を取得した。わが国では、戦時下において鉄筋コンクリートに比べて鋼材を節約できる工法として注目されて福井大学などで研究が開始され、国鉄でも昭和19(1944)から鉄道省大臣官房技術研究所においてさまざまな実験を繰返していた。それが実るのは戦後のことである。
 PC橋がまず実用化されたのは道路橋であった。26年に石川県七尾市の御祓(みそそぎ)川に架けられた「長生橋」で、3.6mの単純桁3連からなる。現在は「希望の丘公園」に移設して保存している。また、28年に福井県坂井市の「十郷用水」に架けられた橋長7.35mの「十郷橋」は、規格に合わない高欄だけをとり換えて現在もなお県道として供用されている1)。一方、荷重の大きい鉄道橋については、28年に東京都府中市のオリエンタルコンクリート社内の専用線に実験的に架設された4.2mの「光弦橋」を嚆矢とする。そして、これが最初に実用化されたものが現在の信楽高原鐵道で使用されているのである。
て、コンクリートにプレストレスを作用させるとはどういう施工を言うのだろう。これにはコンクリートが固まる前に鋼材(鋼撚り線や鋼棒)を緊張させるプレテンション方式と固まってから緊張させるポストテンション方式の2つの方法がある。
図1 コンクリートにプレストレスを導入する2つの方法
プレテンション方式とは、緊張した鋼材の周囲に型枠を建て込んでコンクリートを打設し、固まってから鋼材を切ると、伸びていた鋼材が縮まろうとして、コンクリートと鋼材の付着力によりコンクリートに圧縮力が導入されるというもの。ポストテンション方式とは、シースと呼ばれる管をセットしてコンクリートを打設し、固まってからここに鋼材を通して両側からジャッキで締めて定着させるというもの。最後に、鋼材の防錆のためにシースにグラウトを充填する。この2つを比較すると、プレテンション方式は、ジャッキを固定するアバットが必要となるため現場での施工には不向きだが、それ以外に特別なことは必要なく、品質の高い施工が見込める。現場で製作する時には主にポストテンション方式が採用される。シースをうまくセットすることにより複雑な形の部材に適用できるのもこの方式の特徴である。ただし、PC鋼材の緊張状態を継続できる信頼性の高い定着とグラウトの確実な注入に配意しなければならない。
が国で最初の本格的なPC鉄道橋は、信楽高原鐵道の勅旨〜玉桂寺間にある「第一大戸川橋りょう」(L=30.96m)である。昭和29(1954)年にポストテンション方式で架設された。フレシネーによりパリ郊外のマルヌ(Marne)に5つのPC道路橋が架けられたのが1947〜51年であったことを思えば、この時期にこれだけの規模のPC橋を架けることは画期的な試みであった(それまではRCの鉄道橋は12.5mのものしかなかった)。
 信楽高原鐵道の前身である国鉄信楽線は、鉄道敷設法別表第76号に掲げる「滋賀県貴生川ヨリ京都府加茂ニ至ル鉄道」の一部として昭和8年に貴生川〜信楽間14.8kmを開業したものであったが、信楽〜加茂間は建設されないまま上記区間だけが盲腸線となっていた2)。このうち、大戸川に架かっていた9.8mの鋼版桁橋3連から成る橋梁が28年に当地を襲った水害により流され、その復旧に当たり、2基の中間橋脚を撤去して支間長を30mにした上で構造をPCとすることが選択されたのである。
 PCでの復旧を主唱したのは、当時の大阪工事事務所次長であり後に総裁にまで上り詰めた仁杉 巌3)であった。仁杉は、鉄道省がPCの研究を開始した時のメンバーであり、27年にはヨーロッパでPCの勉強をしてきていたので、わが国でもPC橋を架けたいとの思いを強くしていた。被災をそれを実現する好機と捉え、上層部と掛け合って、技術開発のためだから経済性にこだわらないことの了承を得て(当時の国鉄にはまだこのような余裕があった)設計を進めることとした。ポストテンション方式で用いる定着具などについてフレシネー社が特許を持っていたこともあって、同社から派遣されたフランス人技師(極東鋼弦コンクリート振興)が基本設計を行い、国鉄本社の特殊設計室や国分 正胤(東京大学)・小西 一郎(京都大学)らの指導を仰いで多くの改良を加えて最終的に決定した。
 施工においても試験をしながら慎重に進めた。高強度(設計基準強度 450kgf/cm2)のコンクリートの打設、日本で作った鋼材(引張強度 160kgf/mm2)の性能、
図2 現場付近に存置されている試験桁
張力を加えるジャッキの作動、グラウト材の確実な注入など、先例のないことが多くあったからである。森本組とピーエスコンクリートの請負施工であったが、型枠の組み立て、コンクリートの打設、鋼材の緊張、グラウトの注入などの工程に発注者が強く関与したという。また、コンクリートの乾燥収縮と並んでPCの設計における検討課題であったクリープ4)についてデータを得るため、プレストレスを与えた直後から現場において測定が繰り返された。また、実橋と同じ配合のコンクリートで同じ断面の試験桁を作り、プレストレスを加えた実橋との比較も行われた。
図4 今では珍しいロッカー沓(可動側)
図3 設計・施工の先進性が評価されて登録有形文化財に 指定されている
 なお、本橋は、桁高が1.3mしかないのが特徴である。これは、被災の再発を防ぐために架橋位置を高くすることが検討されたが、近くの踏切から25‰の勾配で上げても線路高には限界があったため、桁高を小さくしたということらしい。支承に鋼製ローラー沓ではなくコンクリート製ロッカー沓を用いているのも珍しい。安価であり、当時のヨーロッパでは使用実績が多かったという。
 本橋の設計・施工から得られた知見を、仁杉は「支間30mのプレストレストコンクリート鉄道橋(信楽線第一大戸川橋梁)の設計施工およびこれに関連して行った実験研究の報告」(「土木学会論文集vol.27」所収)として発表した。この論文は土木学会賞を受賞し、その後のPC橋建設のバイブルとして活用された。
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C橋は、鋼橋に比べて重くなるのは避けられないが、@騒音・振動の発生が少ない A剛性が高くたわみが小さい B塗装の必要がなく維持管理費が低減できるなどの利点がある。RC橋と比べれば、断面が小さく景観性にも優れる。したがって、地質条件が良いところでは一般的に採用される工法に成長した。その発展の方向をいくつか紹介しておこう。
 ひとつは、プレテンション部材を用いた工期短縮である。現場でコンクリートが固まって強度が発現するのを待ってから張力を与えたのではどうしても一定の工期がかかってしまう。これを短縮するために、工場で作ったPC桁材などを現場に運んで架設することが、建設投資が旺盛な高度成長期において多用された。とりわけ、東海道新幹線の建設工事ではこの方法が最大限に取り入れられ、
図5 「やじろべえ工法」で金仙寺湖を渡る橋梁(平成13(2001)年撮影、阪神高速道路提供)
東京オリンピックに間に合わせよとの至上命令を果たすのに大いに貢献した。
 また、セグメント(桁と床版を合わせた部材を輪切りにしたもの)化した部材を現場で順次緊結するという工法も考えられた。セグメントの架設地点への搬入方法やその大きさを適切に選べば、能率的な施工が可能になる。
 海峡や広い河川をまたぐ橋梁、深い峡谷を渡る橋梁などでは、橋脚を中心にやじろべえのように左右でバランスさせながらPCを打設していけば、途中に足場を組まずに大径間の橋梁が建設できる。前記の条件の現場では積極的に採用されている。なお、この方法の発展の陰には、乾燥収縮やクリープで生ずる複雑な力を解析できるコンピュータプログラムの開発や、高強度のコンクリートと鋼材の生産が伴っていることを付言したい。
(参考文献) 上田 洋「第一大戸川橋梁」(「コンクリート工学」Vol.49 No.9所収)
(2018.12.17)(2021.02.13)

1) 天谷 公彦ほか「建設から60年が経過したポストテンション式PC橋の健全性調査報告書」(「プレストレストコンクリート工学会第22回シンポジウム論文集」所収)によると、建設から60年を経ても耐荷性や耐久性に影響を及ぼす劣化は見られず、設計基準強度を大きく超える強度を保っていることが明らかになった。なお、本橋は平成25(2013)年に土木学会選奨土木遺産に認定されている。

2) その後、18年に営業を停止しレール・枕木が供出されたが、戦後の22年に営業を再開している。

3) 仁杉 巌(大正4(1915)〜平成27(2015)年)は東京帝国大学土木工学科を卒業後、鉄道省に入省して主に建設部門を中心に歩み、昭和40(1965)年に常務理事に就任した。43年に退職して西武鉄道に入社したが、54年に日本鉄道建設公団総裁に転じ、58年に日本国有鉄道総裁に任じられた。しかし、国鉄の分割民営化の動きの中で国鉄内部と政府の方針の差を埋めることができず、反対派の幹部とともに辞任。なお、新幹線建設などの功績に対して紫綬褒章、勲一等瑞宝章を受けている。100歳になっても講演を行うなどの活動をしていたが、年末に逝去。著書「挑戦 鉄道とコンクリートと共に六十年」(交通新聞社)において技術者としての履歴を語っている。

4) 荷重がかかり続けると時間の経過とともに変形が増大する現象。PCの場合、これによってプレストレスが減殺されるので、設計に当たってあらかじめ変形量を見込んでおかねばならない。