みかのはら
瓶原大井手用水
−慈心上人の慈徳が生き続ける潅漑水路

民家に沿って流れる大井手用水、「歴史文化の水辺」として修景されている
 新古今和歌集に収録され百人一首にも選定されている「みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ」の和歌は、紫式部の曾祖父である中納言兼輔(元慶元(877)〜承平3(933)年)の作。泉川とは奈良県に近い京都府南部を東から西に流れる木津川、瓶原とはその北岸に広がる平野を指す。ここに鎌倉時代から続く潅漑水路がある。この用水路が連綿と紡いできた歴史を、今回は紹介しよう。

原の地が歴史に登場するのは奈良時代だ。天平12(740)年に聖武天皇がこの地に都をおいた。
図1 礎石が建物の巨大さを伝える恭仁京と国分寺の跡
恭仁(くに)京である。 しかし、3年余りで都は難波宮に移り、その跡は山城国分寺に利用された。それも現在は建物の礎石だけを残す。
 都がおかれたことから推測できるように、瓶原は低地ではなく河岸段丘の上にある(https://web-gis.jp/GM1000/LandMap/LandMap_12_009.html)。農民は水不足に苦しんでいた。ここに手をさしのべたのは海住山(かいじゅうせん)寺の慈心上人である。恭仁京の荒廃後かろうじて法灯を維持してきた海住山寺は、鎌倉時代の承元2(1208)年に解脱(げだつ)上人1)が笠置寺から来住したことによって再興の機運を得、さらに後継者の慈心上人を迎えることにより仏教界において洛南の一大勢力を形成するほどに発展した。慈心は俗名を藤原 良房といい、朝廷に仕えて参議正三位兼民部卿の職にあった人物。承元4年に41歳にして出家し(一説には、後鳥羽院が倒幕を企てたのを諫めることができなかったからという)海住山寺に移った。上人は、瓶原の土地に稲が生育しない事情に注目し、自ら地形を踏査して和束川から瓶原に水を引く用水路を立案したと言われる。これが「瓶原大井手用水」である。
 瓶原の伝説によると、上人がこれを計画したとき、村人は鍬をも受け付けぬ峡谷に水路を設けることは狂人のしわざと笑ったという。しかし、上人は、村が豊かになることは今の皆の喜びだけではなく子孫のためと説いて回り、10年余りの歳月をかけて貞応元(1222)年に3,753間(約6,755m)の水路を完成に導いた。工事の期間中、上人は昼は錫杖をもって現場を巡検し夜は御堂で完成祈願を続けたので、その姿に村人は何度も心を新たにし工事に精を出したという。
 もともとは6村で600余石(約90t)の生産に過ぎなかった瓶原郷は、大手用水の完成により、多くの野原が水田に変わって石高は2,500余石に上がり人口も増えて集落が9村になるという繁栄をみせた。上人の恩恵は大きかった。
原大井手用水の概要は以下のとおりである。取水点を和束郷(現在の和束町)石寺村に求め、ここに「井手枕(いでまくら)」と呼ぶ井堰を設けた。当初は土俵を積み並べたようだが、その後、松丸太と松の枝葉をむしろで巻いたものが作られるようになった。いずれにしても恒久的な施設ではなく、毎年作り替える必要があった。ここから幅1間(約1.8m)の水路がのびる。水路中に水秤(すいかん)石2)と呼ぶ3つの石があり、この石で測定される高さまで水が流れれば充分であり、それより水量が増えると「はづし」の横板をはずして余水を和束川に戻した。水路の中流以下では蛇吉(じゃきち)川など5本の河川を横断する。ここには「船」と呼ぶ木製の筧が架けられた。こうして登大路村にある最後の分水箇所に至る。分水路のひとつは西に流れて東村・西村を潤し、もうひとつは南に流れて川原村・岡崎村に行くのだが、この分水箇所には「千本杭」が設けられ、たくさんの杭を建て並べることによって水勢をおさえて分水を均等ならしめる工夫がされた。
 上人は水路の完成と同時にその維持管理についても教示し、上人が選任した「井手守(いでもり)」がそれを担当した。井平尾から4人、岡崎から2人、川原から2人、登大路から1人、仏生寺から2人、口畑から2人、奥畑から1人、西村から2人の合計16人である(図2にあるように、大井手用水の現在の受益範囲は木津川右岸の井平尾以西の地域に限られているが、もとは和束川に沿う奥畑にも受益地があった)。釈迦から仏法を守り続けることを託された十六羅漢にちなむという。井手守は世襲で給田3町3反が与えられ諸役は免除されていた。井手枕を組む、豪雨の時は井手枕を切る、はずしを操作する、千本杭を打つ、古くなった舟を更新する、漏水等のないよう水路を巡回・点検する、破損箇所を修復するなどすべて井手守が分担した。井手守の業務は、慈心上人の命日である1月16日に海住山寺に籠もって上人の冥福と水路の安全を祈願するところから始まり、次いで井出枕に近い龍王岩に祭壇を設けて祭具を供えて御酒を献じ海住山寺の住職の祈願のもとに関係者が参詣する井出祭が行われる。そして、10月10日の海住山寺での虫供養と20日の報恩講をもって終わる。
木技術として注目すべきは、測量の正確さだ。井手枕と千本杭の標高差は約5.5mであり、勾配はわずか0.08%。ここを水秤石により水深約30cmに保たれた用水がよどみなく流れる。一定の縦断勾配が保たれていることの証だろう。現代のような測量機器がない時代にどのような作業を行ったのかと思うが、その手法は極めてシンプルだった。地形を熟知していた上人が錫杖で地面に予定線を描いておき、夜間に所定の長さの棹に提灯をつけて立て、その光の列から勾配を設定したというのだ。こんな方法でこれほど正確な測量ができるとは驚くばかりだ。
ロジェクトを構築する上人の力量も見逃すことができない。用水の工事は受益範囲の農民が担当したが、その費用は瓶原郷で生糸・酒・醤油・茶・油などを商う庄屋たちに拠出を求めた。農民が豊かになれば購買力が上がり、ひいては商売が繁盛するではないかと説得したのである。庄屋たちはこれに応じたものの、上人は固い岩も厭わずルートを設定したので、工事費がかさむ。庄屋たちからの費用の提供が難渋したことも何度かあったようだ。結局は上人の熱意に押し切られて完成までこぎつけるのだが、工期が10年以上も要した理由のひとつはここにあるという。
 測量の結果に基づき取水点は隣の和束郷石寺村に求めざるを得なかったので、用水を新設するには石寺村との調整が不可欠である。が、上人はここでも巧みだった。自ら石寺村と交渉し、村が不足を感じていた寺院を建てることと引き換えに取水権を得たのである。和束町大字石寺小字森ノ下に現存する竹谷山?渓(いんけい)寺がそれだ。上人はここを布教の拠点として教勢の拡大を図るとともに、水路巡検の際の立寄地としても活用したようだ。
井手用水は、慈心上人によって開削されて以来、時々に補修等を加えながら問題なく使用されてきたが、昭和28(1953)年8月15日の洪水で大きな被害を受けた。この日、和束町湯船で時間雨量100mmに達するという記録的な降雨があり、京都府南部の相楽郡と綴喜郡の諸河川は大きく氾濫した。両郡の死者・行方不明者336名、重傷者1,366名、被災家屋5,676戸を数えた。この災害の特徴は山地崩壊や土砂流出によって引き起こされた土砂災害が激しかった点にあり、大井手用水においても例外ではなく、水害により井手枕と和束川に沿う約1.8kmの水路が潰滅した。
図2 大井手用水のルートと受益範囲
 この復旧工事は翌年2月に着手され、加茂町の農家が平均で1日400人も参加して進められた。費用の9割について国庫補助を受けたと記録されている。復旧に際しては、取水点を下流に移して近代的な頭首工を設け、そこから左岸側にコンクリート製の新たな水路を開き、深さ6.4m、長さ67mのサイホンで和束川の下をくぐってもとの水路につないだ。その下流の急傾斜地では250mにわたって水路をトンネル化し、土砂災害の再発を防いでいる。
は、現在の大井手用水の姿を下流から順に辿ってみよう。まず訪れるのは、恭仁宮跡の北にある千本杭だ(図3)。現在は杭を建て並べることはせず、水路の底は石で固めてある。創設時と変わらずここで水路が二手に分かれて勢いよく流れている。ここから約800mの区間は、大井手用水は集落の中を流れており、民家に沿う区間では「歴史文化の水辺」として景観整備が施されている(表題の写真)。
図3 水路が最後に二手に分かれる千本杭 図4 水田と茶畑を分ける大井手用水
図5 草地を大きく迂回して流れる箕渕 図6 最小限の改修に留められている水路
図7 災害復旧により作られたトンネル 図8 サイホンの呑口を望む
親水公園が開設され、千本杭や船についての説明板が各所に掲げられている。 集落を離れて東に進む。水路より低い左岸側には水田が広がっているのに対し右岸側は茶畑が目立ち(図4)、このコントラストが大井手用水の効果を端的に表している。
 蛇吉川を渡るころから水路は山裾に入っていく。地形が複雑になる分、水路の迂曲は激しくなる。並行する通路は専ら管理用のものだが、よく手入れされていて訪問者にも歩きやすい。やがて、水路は和束川に並行する急傾斜地に入っていく。下に見る府道木津信楽線からは15mほども高い。コンクリートによる改修は最小限に抑えられていて、かつての趣をとどめる。途中、箕渕(みのふち)というΩ型に水路が湾曲した箇所がある(図5)。その直近の樋門への影響を抑制するための措置だという。
図9 頭首工の現在の姿
昔は曲線に囲まれた草地で刈り取った芝草を井手枕の水漏れを防ぐのに用いたそうだ。そしてまもなく、前方には水害からの復旧で構造変更したトンネルが見えてくる(図7)。
 少し南に戻って、府道を不動橋まで行く。このすぐ下流に、大井手用水が和束川を横断するサイホンがある(図8)。少し上流に遡り高橋から右岸側を歩くと、ほどなくコンクリート製の頭首工が見える(図9)。災害復旧により設置されたのち、平成5 (1993)年に魚道を追加するなどの補修があって現在の姿になった。堤長 44.0m、
図10 頭首工の傍らにある「水害復旧記念碑」 図11 検見岩の上に建つ「僧慈心上人功徳之碑」
堤高 4.6m、最大取水量 0.77m3/秒。傍らには「水害復旧記念碑」も建つ(図10)。
 さらに上流に足を延ばすと、かつての井手枕を見下ろす巨岩の上にあるのが「僧慈心上人功徳之碑」だ(図11)。大正2(1913)年に村民が相談して建てたもので、京都府知事 大森 鍾一3)による格調高い漢文で上人の功績を讃えている。そこから少し奥まった管理通路の終端には、龍王岩に面して祭壇がしつらえてあった。
農環境の整備・維持を目的として昭和24(1949)年に「土地改良法」(昭和24年法律第195号)が制定され、法に基づく土地改良事業を施行するために土地改良区という公法人を設置することとされた。大井手用水については「瓶原土地改良区」が27年に設立され、用水の維持・管理にあたることになった。
 だが、大井手用水では用水に関する業務がすべて土地改良区に移ったのではない。井手守も健在だ。家系の断絶などにより現在は10名に減ったが、土地改良区と協力して井手祭などの一連の行事を執り行っている。貞応元(1222)年の通水から800年余り、慈心上人の慈徳への感謝と信仰にもとづく用水管理が延々と継承されているのである。

(謝 辞) 本稿の執筆に当たり瓶原土地改良区からご教示を賜った。


(参考文献) 京都府山城土地改良事務所「南山城瓶原大井手」
(2024.10.05)



1) 解脱上人(久寿2(1155)〜建歴3(1213)年、俗名 藤原 貞慶)は、平治の乱(平治元(1159)年)によって祖父は自害、父は土佐に配流されたため、望まずして興福寺に入り11歳で出家した。学僧として優れ、28歳で維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂行し将来が嘱望されたが、僧の堕落を嫌って建久4(1193)年に笠置寺に隠遁した。さらに海住山寺に移り、保延3(1137)年の火災により焼失していた伽藍の復興を推進した。

2) 水秤石は、上流から「頭巾石」、「烏帽子」、「牛が鼻」の3つの石から成っており、最も低い牛が鼻と最も高い頭巾石の間に水位を保つのがルールだった。簡単な指標で水位管理を行っていた。なお、現在は水秤石は確認できない。

3) 大森 鍾一(おおもり しょういち)は、安政3(1856)年に駿府与力の家に生まれ、静岡・名古屋で学んで1873(明治6)年に明治政府に出仕して主に内務省の要職を歴任する。1902(明治35)年に京都府知事に任じられ1916(大正5)年まで務めた。大正天皇の崩御に伴い皇太后宮大夫に就任したが、在職中の昭和2(1927)年3月に逝去。「仏国刑法説約」(法制局)、「仏国地方分権法」(博聞社)などの訳書がある。