おんたに
鬼谷川砂防堰堤−福井県の巨石砂防堰堤を訪ねる |
白いしぶきを上げて水が流れ落ちる鬼谷川砂防堰堤 |
鬼谷川は、荒島岳(H=1523.5m)に水源を発し、西流して九頭竜川の支流真名川に合する渓流である。沿川は、安永年間(1772〜1781年)までは鬱蒼とした昼なお暗い密林だったと言うが、伝承によると、ある夜
突如として山腹が崩壊し、大量の土砂が流出して真名川を堰き止めたという。以来、鬼谷川は荒廃した流域を持つことになった。ここにある鬼谷川砂防堰堤は、巨石を使用している点で極めて特徴的な構造物だ。 |
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治初年に福井県が成立した時、鬼谷川は荒廃した姿を見せていた。明治24(1891)年の濃尾地震に際しては、山腹の各所に大崩壊をきたし、急峻な地形と脆弱な岩質のために土砂流出が甚だしかった。そして28年に発生した大洪水に際して、渓谷に堆積した土砂が一気に流下して真名川を堰き止め、あふれた水で大きな被害が生じる事態を生じた。
参考文献1の記述に参考文献2の情報を加えてまとめると、鬼谷川砂防堰堤の経緯は以下のようである。濃尾地震の被害から砂防事業の必要を認めた福井県は、明治25年に県議会で土砂扞止の議決がなされ、27年には砂防事業に対し工費2,740円が議決された。県では初めてとなる砂防事業である。高木
春孝が石堰堤を建設したが、完成の直前に暴風雨により大部分が流出してしまったという。その後、これを補修して30年に長さ15間(約27.3m)、直高7間5分(約13.6m)の石堰堤を完成させた。工費は3,600円を費やした。この砂防堰堤により鬼谷川の水流が安定すると、
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図1 鬼谷川に建設された堰堤群(出典:参考資料2) |
村民は紀念碑を建てて県で最初の砂防事業を喜んだ。 折しも明治30年は砂防法が発布された年である。県では、32年度から本法の適用を受けて国庫補助を仰いで砂防工事を起こすこととした。参考文献2に添付した「鬼谷川砂防工事平面図」には大小24基の石堰堤が記載されており、その概要を図1に示した。多くは32年度と34年度に完成し、41年度に災害復旧で追加設置及び再構築され、昭和9年度にも災害復旧で石堰堤が築造されたことが読みとれる。鬼谷川では、砂防工事を行うのに併せて、同時に砂防指定地の山業を禁制した。これらにより、次第に荒廃地は姿を消して良好な林相を呈するようになり、土砂流出もほとんどなくなったということだ。
1でBとしているのが本稿の対象としている石堰堤で、JR越前大野駅から南東に8kmほどの大野市佐開(さびらき)にある(標題の写真)。参考文献2によると、30年度に築造された後は、流失した設備の復旧と機能増強とを含め、32年度には水叩きと護岸石積み、33年度には水叩き、36年には水叩きと床固めと、国庫補助を受けて年々工事を継続し、36年に成功を告げるに至った。しかし、不幸にして洪水に遭い、41年に災害復旧により石堰堤を再構築している。
現在の諸元は、堤高約6m、堤長約36m、天端幅約5〜10mであり、明治36年の状況を記した参考文献1の値とは異なる。41年の災害復旧においてこの大きさで再構築されたと思われる。
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図2 右岸に残る明治30年建立の紀念碑 |
法勾配約1:0.5の空石積み1)堰堤であり、丸みを帯びた自然石を整形せずに積んでいるようだ。石はたいへん大きく、径は1mほどもある。右岸側には山腹の石積みを貫く水路があり、潅漑用ダムの機能も果たしている。また、参考文献1に言及された「砂防工紀念碑」が右岸に現存しており、明治30年11月、横田
莠(はぐさ)2)の書とある。鬼谷川砂防堰堤は、現在も効果を発揮しており、貴重な土木遺産と言える。
ところで、参考文献2には、図3の写真が掲載されている。この写真がいつどの堰堤を撮ったのか示されていないが、鬼谷川には割石積み堰堤も建設されていたことがわかる。それだけに、本稿で紹介する堰堤が巨石で構築されているのは著しい特徴である。
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図3 鬼谷川に建設された割石積み堰堤の例 |
奥越土木事務所が管理する砂防設備台帳によれば、現在 鬼谷川には25基の砂防堰堤があるが、そのうち少なくとも19基は昭和9年より後に建設されている。ということは、図1に示された堰堤のかなりは流失したか崩れて自然に同化してしまったということだ。その中にあって本堰堤が今まで機能し続けていることは大いに評価される。そのひとつの理由は、巨石を用いていることにあるであろう。巨石は割石に比べて運搬や据付けに労力を要するので、工費が増大する。それにも拘わらず、洪水でも流されにくい巨石を用いたことが、奏功していると思われる。もうひとつの理由としては、
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図4 「六つ巻き」で積まれた堰堤 |
石積みの空隙が大きいため、水が石の間を通り抜け水圧を受けにくいことが挙げられる。 なお、一般に、自然石を積むときは、ひとつの石を6つの石で囲む「六つ巻き」が望ましいとされているが、水がかからないところで観察すると、本堰堤ではまさにそのようになっており、確かな技術でもって構築されていることが伺われる。
井県において、もうひとつ巨石の使用で知られる「アカタン砂防堰堤群」が南越前町の赤谷川にある。赤谷川は、九頭竜川水系日野川の支流である田倉川に注ぐ、
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図5 鬼谷川砂防堰堤とアカタン砂防堰堤群の位置 |
主流路延長約3.6km、流域面積約5.8km2の河川である。明治28年の豪雨により被災し、鬼谷川より少し遅れて33年度より砂防工事が行われた。9基の堰堤が設けられ、そのうち7基が石堰堤である。福井県が岐阜県3)から招いた砂防専門官 大屋 宇吉を監督に起用し、岐阜から来た仙吉という石工が施工を指導した。地元の「田倉川と暮らしの会」が伝承しているところによると、工事には村人が1日に200〜300人も参加し、男は谷の上流にころがる巨石を木馬に乗せて運びおろし、女は綱で石を引いたり突き棒で土堰堤を固めたりしたという。7年の工期を費やして39年に完成した。本堤でも石が「六つ巻き」で積まれており、仙吉の指導が的確であったと思われる。
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@九号えん堤 |
A八号えん堤 |
B奧の東えん堤 |
D大平口えん堤 |
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E大平ナベカマえん堤 |
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C松ヶ端えん堤 |
F大平中えん堤 |
G大平ミズヤ上・下えん堤 |
図6 アカタン砂防堰堤群の諸堰堤 |
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石堰堤のうちで最も観察しやすい「松ヶ端(まつがはな)えん堤」を図6 Cに示す。堤高約7m、堤長約27mで、左岸側(写真では右)の岩盤を掘削して導流堤により分離された「水通し」としているので、堰堤に水が流れず容易に接近することができるのだ。堰堤の本体と導流堤の石の大きさは明らかに相違しており、
導流堤が50cm程度の石の練り石積み1)であるのに対し、本体は総じて1〜1.5m程度の石の空石積みで、堤体の下部にはその中でも大きい石を積んでいるようだ。また、堰堤の頂部を左岸側に向かって低くなるように傾斜させており、水流を水通しに導いて堰堤の越流を防ぐことを狙っているという。この堰堤が長く機能している理由のひとつであると思われる。
なお、岐阜県の養老山地には巨石堰堤がいくつか残っており、明治21年に竣工した羽根谷第一堰堤(堤高約12m、堤長約52m)が良く知られている。アカタン砂防堰堤群に用いられた技術はこれに由来するのであろう。鬼谷川砂防堰堤がアカタン砂防堰堤群と同じ系譜の上にあるのかどうか筆者には判断できないが、いずれも100年以上たった今もその機能はほとんど失われていない。
ころで、参考文献3には、「当時のオランダ人の工法を用いて築造されたと思われる」との記述がある。同書には何を根拠にそのように判断したのかが示されていないので、独自に考察してみよう。
わが国に砂防技術をもたらしたのはオランダから来た技術者であることはよく知られている。デ・レーケ(Johannis
de Rijke)やエッセル(George Arnold Escher)は、明治8年から13年にかけて京都府の不動川において砂防事業を指導した。特に、デ・レーケは、明治8年3月から6月まで現地で16種の砂防工法を考案して試験施工を行い、併せて「砂防工法図解」を著して砂防職員の教材としている。そこには堰堤工として割石堰堤と野面石堰堤が示されているが、鬼谷川で見られるような巨石を用いるものではなさそうだ。
福井県について言えば、エッセルが明治9年に来県して足羽川の災害復旧や三国港の改修について調査しており、13年にはデ・レーケが三国港の修築工事のために本県に滞在している。しかし、オランダ人技術者は次々に帰国し、鬼谷川砂防堰堤が建設された30年頃に日本にいたのはデ・レーケだけになっていた。この頃の彼は、現在の事務次官ほどの地位である勅任官に昇進しており、地方の個々の事業を指導する立場ではなかったと思われる。
仮に、鬼谷川砂防堰堤がアカタン砂防堰堤群を経由して岐阜県の養老山地に作られた堰堤の系譜を引くと考えた場合のために、養老山地における砂防堰堤がオランダ人の技術によるものであるか検討しておこう。木曽川流域のデ・レーケの業績を追った参考文献4によれば、彼が木曽川流域を最初に視察したのは明治11年の2月から3月にかけてのことで、その成果を「木曽揖斐長良及庄内川流域概況(木曽川下流の概説書)」として政府に提出した。そこには、水害の原因は土砂が河道を堆積することにあるとして、まず山林の保護と砂防工による土砂流出の抑制が盛り込まれている。デ・レーケの建議に基づき、政府は明治11年度に三重県や岐阜県の養老山麓で砂防工事を起工し、14年度〜18年度にかけて岐阜県において国費を支弁して砂防工事が行われた。この間、デ・レーケは何度か木曽川流域を訪れておりその足跡はよく記録されているが、いずれも短期間の視察・巡回であり、現場における助言はあったものの、不動川のように砂防設備の設計・施工を範示して日本人を指導したと言うほどの関与ではなかったであろう。参考文献4は、「デ・レーケの主たる任務は改修の準備と改修計画までであり(中略)施工にはほとんど関わらなかったようである」と述べている。
以上により、鬼谷川砂防堰堤とオランダ人の技術との接点は見出しにくいというのが筆者の感想だ。砂防事業に詳しい友松 靖夫氏によると、予算関係の書類には「工師デレーケ之計画ニ拠リ」と入れるようにとの指導が明治19年に発出されていた(参考文献5)という。おそらく、予算を獲得するための方便であったのだろうが、デ・レーケが関わっていない砂防設備にもこのように記されるのであるから、文書だけに基づいてデ・レーケの関与を判断するのはたいへん危険である。デ・レーケの関与を言うためには、彼の行動を検証するとともに技術面での異同を論ずる必要があるのだ。
(参考文献)
1 「砂防沿革大要」(明治36年1月)
2 福井県治水砂防協会「鬼谷川砂防工事の概要」(昭和11年)
3 福井県教育委員会「福井県の近代化遺産」
4 建設省中部地方建設局木曽川下流工事事務所「デ・レーケとその業績」
5.友松 靖夫「知られざる瀬田川砂防史」((一社)全国砂防治水協会「砂防と治水」vol.47 No.4所収)
1 空石積みとは、石と石の間をコンクリートなどで埋めず、石の組み合わせだけで積む方法。これに対し、石と石の間にモルタルやコンクリートを流し、石を接合して積み上げる工法を練り石積みという。
2 横田 莠(天保3(1832)〜明治32(1899)年)は、幕末から明治時代の儒者、教育者。江戸にでて安井息軒(そっけん)らに学び、のち昌平黌に入る。越前に戻って藩校明倫館教授兼幹事となり、維新後は福井師範教諭、明倫中学校長などを務めた。名は重敏。
3 埼玉県で大正5(1916)年に着工された「七重川砂防堰堤群」が巨石の空石積み堰堤であり、岐阜県から職人を招いて指導を受けたと伝えられている。福井県のほかにも各地で岐阜県の技術が注目されていた可能性がある。
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