大野ダム

その後のダム建設の先例となった大野ダム
 ダムの建設は、下流の受益が大きい反面、水没する地域は大きな影響を受ける。そのため、水没地域から激しい反対を受ける例が多い。一方、本稿で紹介する大野ダムは、京都府が「被害者を被害者のままにしない」という理念で地域の営農振興策を約束し、円満な解決に導いた。ダムの完成から60年余。課題は多いようだが、地域に根付いたダムの現状をレポートしよう。

良川は、その源を京都・滋賀・福井3府県の境界をなす三国ヶ岳(H=959m)に発し、山間部の支流を集めながら北桑田地区を西に流れて綾部に達し、さらに福知山で土師川を合流して大きく北東に向きを転じ、両岸に山が迫る中を日本海に注ぐ。その流域面積は1,880km2で、京都府(1,700km2)と兵庫県(180km2)にまたがる。
 由良川は洪水の多い河川だ。参考文献1には、明治40(1907)年から昭和47(1972)年までの66年間に発生した洪水62件が記録されている。これほど洪水が多いのは、由良川の成立過程と大いに関係があるようだ。地学団体研究会京都支部「京都五億年の旅」(法律文化社)の記述を抄録すると次のとおりである。@福知山駅の南の地点で地層を観察すると、砂礫の向きから水が北から南に流れていたことがわかる A土師川支流の竹田川の段丘には北方から流れてきたとしか思えない斑レイ岩の礫が含まれる B由良川水系と加古川水系を分ける丹波市石生(いそう)(日本一低い分水界として知られる)は深さ60m付近まで砂礫層であり、もとは深い谷であった C福知山から綾部の広い範囲で青色粘土と泥炭の地層が見られる、という事実から、福知山より上流の由良川は、もとは土師川・竹田川を経て石生から加古川に流れていたのが、数十万年前に石生付近が相対的に隆起したため加古川に流れなくなり、福知山から綾部にかけての地域は湖のように水が淀む状態になった、と考えられるということだ。やがて湖水は北方に出口を見出し、現在のような由良川の流路になった。したがって、福知山より下流の由良川は、上流の流域面積の広さに対応するだけの河谷を形成するに至っておらず、河積が過小な状況にあると推測される。

図1 由良川水系の概要

 由良川は、古代において大陸の文化を丹波から都に伝えるうえで重要な役割を果たしたと思われるが、その改修の歴史は比較的新しく、明智 光秀が行った福知山城築城(天正8(1580)年)に伴う堤防築造1)と田辺藩(西舞鶴)の細川 忠興が行った和江岬2)の河道開削工事(慶長4(1599)年)が古いものとして知られる。明治時代には、デ・レーケを招いて指導を受け(明治23(1890)年)たが、彼の具申は河口の島を撤去すること等であった。抜本的な改修が難しいかったことを物語るのかもしれない。その後、29年の(旧)河川法のもとに由良川は全国に65ある直轄事業河川に選ばれたが事業着手には至らず、災害復旧により42年に「福知山大堤防」3)ができたくらいのものであった。
 急峻な上流部、狭窄な下流部、その間に位置する中流部の盆地という構成になっている由良川では、下流部の疎通能力が限られているために、中流部の洪水を防止するためには上流部で洪水を調整するしか方法がない。よって、水系の統合的な治水計画のもとに直轄河川事業が開始される昭和22(1947)年まで、沿川はほぼ無防備な状態が続いた。
正15(1925)年、東京帝国大学教授で内務省土木研究所長の職にあった物部 長穂(明治21(1888)〜昭和16(1941)年)は、多目的ダムにより流域の総合的な河川整備を図る「河水統制計画」を提唱し、これが採用されて昭和12年に予算化された。その中に「由良川河水統制事業」といて大野ダムが盛り込まれ、13年にいったんは着工されるが、第2次世界大戦の戦局が不利になるとともに建設資材が欠乏して1年余で工事は中止された。
  戦後、荒廃した国土と産業を再生するために河川の総合開発事業が重視された。由良川においては22年に改修計画が策定され、綾部から河口までの53kmを対象とし、綾部から福知山の間は幹川及び主な支流において連続した堤防を築くこと、河積の不十分な箇所を掘鑿すること、屈曲部の直線化や護岸の強化などを行うこととして事業が開始された。28年に、洪水調節と水力発電を目的に
図2 台風13号により浸水した福知山市内、保安隊が救助に出動している(出典:目で見るふくちやまの100年出版発起人会「目で見るふくちやまの100年」)
大野ダムの建設計画が予算化されて事業を開始するのに併せて、由良川改修計画もダムを前提として改訂し、福知山における計画流量を3,100m3/秒としたものを新たに策定した。
 ところが、28年9月の台風13号による降雨は15〜20mm/時程度が15時間も続くという激しいものだった。福知山においては整備済の堤防も決壊して浸水深は8.1mに達した。由良川水系における死者・行方不明者120名、家屋流出・全壊3,013戸など甚大な被害があった。この出水を解析して福知山での流量は6,500m3/秒と推定された。改修計画は根本的な修正が必要となった。
 検討の結果、13号出水を計画対象洪水とし、大野ダムによる調節を加味して福知山における計画高水流量5,600m3/秒とする計画が33年に策定された。大野ダムは、総貯水量2,855万m3の規模を有し、ダム地点における計画高水量2,400m3/秒のうち42%に当たる1,000m3/秒を調節するものであった。併せて最大出力11,000kWの発電を行う。京都府において最初の多目的ダムであった。
業は建設省近畿地方建設局(当時)が初めて直轄で行うものであった。台風13号の甚大な被害に鑑み、ダム建設について当初から強い姿勢を示していた。下流自治体も切に要望していた。
 一方、ダムにより家屋132棟、宅地23ha、田畑60ha、山林96.5haなどが水没する旧大野村と旧宮島村は、大野ダム計画の復活を察知した26年から一貫して反対していた。昔から百姓しかしたことのない農民が生活の基盤である農地を奪われたら生活の見通しが立たないというのが理由であった。時の府知事は、台風13号の惨状を見て大野ダムの建設は不可欠だと考えていたが、住民の犠牲も最小限にすべきとしていた。そして、“被害者を被害者のままにしない”という理念のもと、今後の営農については府が総力を挙げて善処すると約束し、水没を契機としてこれまでの不安定な農業経営から転換するよう説得にあたった。31年4月、被害者同盟は絶対反対から条件闘争へと態度を変えた。31年12月に移転補償が、32年12月に漁業補償が、33年3月に公共補償が妥結して補償交渉は完了を見た。併せて、府は、感謝料として250万円と有線放送設備一式(700万円相当)を贈った。また、府の斡旋により、ダムにより減災が図られる下流自治体(綾部市・福知山市・大江町)は500万円を贈り、加えて謝礼金として5万円を添えた。
 ダムの工事は32年11月に着工した。まず、工事中に由良川の水を流す仮排水トンネルが33年3月に完了。4月から本
図3 コンクリートを打設している大野ダム(昭和34年10月ころ)(出典:参考文献2)
締切にかかり、ダムサイトがドライとなった。12月に定礎式を挙行してコンクリートの打設が始まった。発電設備も順調に進捗し、35年12月に湛水式を迎えるに至った。
 着工から3年5か月を費やして完成は36年3月であった。重力式コンクリートダムで、堤高61.4m、堤頂長305m、堤体積16万7,000m3。貯水池の湛水面積1.862km2、有効貯水量21,320,000m3。コンクリートには高炉セメントが使われた。放流設備としては、堤頂付近にある高さ11.6m、幅9.5mのクレストゲート4)3門はわが国で初めて導入された「建設省二型水門」というテンターゲート5)により開閉を行う。中ほどには高さ4.435m、幅4.0mの放流管ゲート3門を備える6)。放流管を内蔵する重力式ダムとしてはわが国で最初のものとされる。ダムの右岸が河岸段丘になっているため、堤体右岸部が折れ曲がっており、洪水吐きも左岸に偏っているのが特徴である。事業費は38.3億円で、公共事業が24.4億円、電気事業が13.9億円を負担した。37年4月にダムの管理が建設省から京都府に移管7)された。また、発電事業も府が公営企業として行うこととした。本ダムは多目的ダムとは言え、ゲートの操作は治水の重視が貫かれているからであった。関西電力との間で電力の受給契約を締結した。
事業に伴って府が地元に約束した営農振興策について見ておこう。その柱は、@水没する田畑の代替となる開田・開畑及び既耕地の土地改良、A酪農・養鶏等の推進、B特産物(茶・椎茸・わさび・栗・桐)の育成であった。「大野ダム地域営農振興事業5ヶ年計画」を策定し32〜36年度に1億7,200万円を予定した。これらの事業は着実に進められた。
 府が力を入れた酪農振興では、ダムに伴う酪農対策が終了した37年時点で85戸が194頭の乳牛を飼育し、酪農センター2棟・畜舎77棟・サイロ120基・サイロ・サイレージカッター9台などが整備されていた。また、185反(18.3ha)の牧野を開墾して飼料の自給を目指した。毎日6石(約1,080リットル)余りの乳を搾り、半分は学校給食用に回し残りは京都市内の生乳メーカーに出荷されていた。経営自立の見込みのある農家が8割ほどあった一方、乳価の頭打ちと購入飼料の価格上昇で経営不振になる農家や、山林労働に依存する従来の経営から商品生産を行う企業的経営への転換がうまくいかずに困窮する農家もあり、府では融資や利子補給などを行っている。養鶏においては、10,800羽の鶏を導入し、養鶏センター1棟を整備している。また、茶業振興では、103.8反(約18.3ha)の茶園が開かれ、生産者は「美山茶業組合」を結成して共同製茶工場を持った。椎茸1万本や栗園10反の開設などにも取り組んだ。
 この時期、松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)事業において住民らが砦を築いて抗争した「蜂の巣城紛争」(昭和33年)を始め、各地でダムに対する激しい反対が起きている。沼田ダム(利根川、28年着手)や赤岩ダム(鵡川、27年着手)が住民の反対により事業中止に至ったほか、大滝ダム(紀ノ川、37年着手)、八ッ場(やんば)ダム(吾妻川、42年着手)、徳山ダム(揖斐川、46年着手)、宮ケ瀬ダム(中津川、46年着手)などは、事業を継続するために住民との交渉に多くの時間を費やすこととなった。大野ダムにおいてこのような展開を見なかったのは、府が営農対策を講じて水没する農民を支援したことが大きい。また、下流自治体からの謝礼金は、その後、天ヶ瀬ダム(39年竣工)において受益者である大阪府が滋賀県に対して支払い、高山ダム(44年竣工)でも下流の阪神地域が支払いに応じており、上下流が協力して治水を行う手法として定着した感がある。府の取り組みは
表1 美山村域における乳用牛飼育と茶園経営の推移(1965年は京都農林統計協会「京都府市町村別農林統計書」、その他は各年度の農林水産省農業センサス統計書による、*は1967年の値)
年 度 1965 1975 1985 1995 2010
乳用牛を飼育
する農家数及
び飼養頭数
71戸

162頭
12戸

107頭
7戸

121頭
7戸

215頭
3戸

茶園を経営す
る農家数及び
茶園面積
*856戸

*16ha
133戸

3ha
61戸

4ha
49戸

4ha
6戸

ダム事業の進め方のモデルを示したものとして評価できる。
 ただし、現時点で見て府の営農施策は全くの成功だったと言うことはできまい。酪農や茶業を経営する農家の数は急速に減っている。小規模な農家の経営難や後継者不足が理由であるという。参考文献2は、農家の経営能力を深く吟味しないまま一律に酪農や茶業に転換したことを反省点としている。継続している農家は、生産量は少ないながらも「美山牛乳」、「美山茶」などのブランド商品として出荷して、生き残りを図っている。
野ダムの運用として、洪水期間中(6月16日〜10月15日)は、
図4 大野ダムの断面
ダム水位を標高157.0m以下に保ち、洪水が予想される場合には事前に予備放流を行い水位を標高155.0mまで下げて、サーチャージ水位8)の標高175.0mまでの間20.0mを使用して洪水調節を行い、こうして1,000m3/秒の洪水調節を可能とする計画である9)
 大野ダムの洪水調節の例として、平成16(2004)年台風23号の場合を、府が作成した「平成16年台風第23号災害の記録」から見ていこう。この台風は10月13日にマリアナ諸島付近で発生し、20日に高知県に上陸して北東に進んだ。広い範囲でこれまでの日降水量の記録を更新する大雨となり、円山川や由良川が氾濫した。舞鶴市の由良川に沿う国道175号が冠水し、観光バスが立ち往生して37名の乗客が屋根に上がって救助を求めた。大野ダムでは、20日17時30分頃にダムへの流入量が500m3/秒に達したため、流入量の40%を貯留し放流量を60%まで絞り込む操作を開始した。その後もダムへの流入量が増え続けた結果、21日2時頃にはダムの貯水位が上限を超えることが予想され、通常ならば、ダムの溢水による下流の急激な水位上昇を避けるためにダムへの流入量をそのまま下流に放流する操作が行われるところであった。しかし、由良川下流でバスが孤立しているなど放流による重大な影響が懸念される状況であったので、人命救助を優先して上記の操作を見合わせた。この対応に当たっては、最悪の場合、ダムからの溢水によって急激な水位上昇が発生する可能性があったため、関係機関と綿密な連携が図られた。結果的には、その後は降雨がおさまり、サーチャージ水位を越えることなくダムからの溢水は回避された。21日12時頃まで洪水調節を続けて、最終的には約1,773万m3の洪水を貯留した。
 この例からもわかるように、大野ダムは由良川の洪水調節に大きな役割を果たしているが、まだ由良川の治水は満足できる水準に達しているわけではない。改修の促進が望まれる。
図5 管理事務所に隣接するビジターセンター 図6 南丹市が開設している「大野ダム公園」
葉にはまだ少し早い秋の日、大野ダムを訪れた。かつて地域に厳しい選択を強いたダムも、今は穏やかであった。貯水湖は「虹の湖(にじのこ)」と名付けられ、ダムの完成時に関係者や住民が植えた約1,000本の桜と約500本のもみじが水面に影を落としている。ここで4月には「さくら祭り」、11月には「もみじ祭り」が開かれる。ダムの整備効果などを説明した案内板が設置され、管理事務所に隣接したビジターセンターにはダムに関する資料が展示してあった。本格的な文献もおいてあり、自由に閲覧できる。府は、ダムの周囲にパターゴルフ場、多目的広場、運動公園などを開設して地域の利用に供している。また、ダムサイトは南丹市が占用して公園として供用している。観光の拠点のひとつとなっているようで、レストランや案内所が併設されている。ゆっくりと遊歩道を散歩する人の姿があった。


(参考文献)
1.建設省近畿地方建設局福知山工事事務所「由良川改修史」

2.大野ダム誌編さん委員会「大野ダム誌−由良川」
(2022.11.09)(2023.06.22)
   

1) 明智光秀が福知山城下の建設を進めるに際し、蛇行・迂回していた由良川を改修し城から北西に1km以上の堤防を築いたと伝えられる。由良川と土師川の合流部にある「蛇ヶ端(じゃがはな)御藪」は「明智藪」とも「光秀堤」とも呼ばれる。

2) 河口から約4kmの和江地区で由良岳の支脈が由良川に突出していた箇所。ここを幅員20間(約36m)削って河道とした。先端が「瀬戸島」として残っていたが、大正2(1912)年に京都府により除去された。

3) 明治40年の水害の復旧により築かれた堤防で、高さ11m、長さ1,200mにわたる石張り堤防。その後、昭和2(1927)年の丹後地震で堤防にひびが入り、当時は例が少ない鋼矢板を入れて補強がされ、この工法で補強した京都府の土木技師の姓を取って「岩沢堤」と称されている。

4) ダムの堤頂部(crest)に設置されている水門のこと。洪水時にダム天端からの越流を防ぐための非常用洪水吐として用いられる。

5) 米国のテンター(Jeremiah B. Tainter、1836〜1920)により1886年に考案されたもので、円弧状の扉体が軸から伸びた腕で回転しながら開閉する。ラジアルゲートともいう。

6) 各地のダムで、後述するように、ダムの洪水調節容量を増やすために大雨が予想される場合にあらかじめ貯水位を下げておく事前放流が注目されているが、本ダムでは中段に放流管を設けることにより事前放流を実現できている。

7) 当時の「特定多目的ダム法」(昭和32年法律第35号)では、第29条において、2以上の都府県の区域に渡る河川に存するものを建設大臣が管理することが原則とされ、それ以外のものは都道府県知事が管理することされていたため。

8) サーチャージ(surcharge)とは過載という意味で、洪水時に一時的に限界まで水をためることができる水位をさす。ダムの操作規則では、これより水位を上昇させてはならないと規定される。

9) 令和2(2020)年8月からは、事前放流の目標水位を標高150mまで下げることによりさらに洪水調節容量を1,812千m3増やして、事前放流を強化させている。