堤防に囲われた
水郷の痕跡を残
す町


段蔵を設けて水害に備えた家宅(門真市一番町)
 地球温暖化のせいなのかどうか筆者にはわからないが、最近、雨の降り方が激しく、各地で洪水の被害が発生しているように思える。低い土地ではなおのこと水防に意を用いなければならない。本稿で紹介する淀川左岸地域は、過去に何度も大きな被害を受けてきたところで、水防の先進地域でもある。地域の状況をレポートしよう。

川は、記録に残っているものだけでも300回近い洪水に見舞われている。淀川の流れる京阪間は、わが国において古くから開発が進み人口・資産の集積した地域であることから、歴代の為政者はその治水に力を注いでいた。特に、淀川の左岸に当たる北河内から中河内の地域は、古代には河内湾や河内湖だったところで、淀川が溢水すればおのずと水はそちらに流れる。これを防ぐために、豊臣秀吉は淀川左岸に連続した堤防である「文禄堤」を築いた(文禄5(1596)年完成)。
 文禄堤は、淀川の洪水を左岸の低湿地に導かない点では効果があったが、上流から流れてくる土砂が他に逃げずに本流の河底に堆積することになり、淀川の河床が高くなる結果ももたらした。よって、大雨に際してひとたび堤防が切れると甚大な被害を生じせしめることになったのである。

去に淀川で起こった最大の洪水は、享和2(1802)年の「点野(しめの)切れ」と呼ばれる洪水とされている。岸和田(現在の門真市東部)の善福寺住職であった解証の記録によると、6月28日より降り始めた激しい雨により7月1日に仁和寺村と点野村(いずれも現在の寝屋川市)の堤が切れて濁流が流れ込み、2日には寺の水位は
図1 淀川左岸地域に築かれた堤防の例、集落と耕地を連続した堤防で囲んだ囲い堤も見られる(参考文献2をもとに作成)
9尺4寸(約2.8m)に達したという。その後、堰き止めが試みられたが、くい止められないでいる間に再び大雨となり、水位も6尺以上になった。決壊箇所の堰き止めが完了したのは9月17日のことで、 9月下旬になってようやく水は引いた。冠水期間はおよそ80日に及んだ(参考文献1)。
 このような被害を軽減するため、時期は不明であるが、淀川の沿川の村々では「囲い堤」が築かれていた。これは、集落や耕地を全体として連続した堤防で囲んだものだ。類似のものを木曽川下流域では「輪中」と呼んでいる。当然のことながら、囲い堤の内部は、水防と水利で共通の利害を有することから、強い共同体を形成した。一方、囲い堤の範囲を越えた村々とは、利害が一致する場合は連合することもあったが、相反する場合は激しく対立した。
 堤防で囲まれた内部には用水路や排水路が張り巡らされていた。用排水のしくみがどうなっていたか、「木田囲い堤」を例に具体的に見ていこう。ここでは、堤防で囲まれたエリアの北西にある「伏越樋」から「二十箇用水」の水を引いていた。樋の名称は、サイホンの原理を使って寝屋川の下を通って用水を引いていることに由来する。享保年間(1716〜1736年)に、当時の庄屋 久左衛門の努力により完成したと伝わる。二十箇用水は、文禄堤のために灌漑用水を得にくくなった茨田(まった)郡(おおむね現在の寝屋川市・門真市・守口市・大阪市鶴見区に相当)のために設けられた広域的 な用水路である。寝屋川よりやや水位が高いようで、これを利用することにより木田では自然流下
 図2 市街化が進んだ今も囲い堤
 の跡の道路に比べて堤内の民地
 は1.5mほど低い(寝屋川市萱島
 信和町)
図3 木田囲い堤における堤内への取水と堤外への排水(国土地理院発行の旧版地図を使用)  図4 伏越樋について市が掲げて
  いる案内板(寝屋川市木田町)
で田圃が灌漑できたようだ。人々の喜びは大きかったと思われる。排水はエリアの南端の「からくり樋」から寝屋川に排出した。この名の由来は、寝屋川の水位が高いときには樋を閉じ、低くなったら開けるという操作をしたことによるらしい。今は樋はなく、「からくる親水公園」に名を残している。
 荷物の運搬や人の移動には、ぬかるみやすい道路よりも水路を田舟を利用することが多かった。先の記述からわかるように、囲い堤の中には水位の異なる水路が入り組んでいた。水位差のある水路を田舟が行きかうためには、閘門の設備が必要である。当地ではこれを「バッタリ」と呼ぶ。また、水路が堤防により隔てられている個所には、「舟越場」というなだらかな
 図5 基壇の高さの異なる段蔵を持つ家(門真
  市三ツ島)
スロープを設けて、舟に荷物を積んだまま往来することを可能にしていた。
 樋は農民により厳格に管理されたが、長雨が続くと浸水は避けられない。大地主や豪農の家では、家宅に隣接して「段蔵」を建てた(表題の写真)。なぜか敷地の北西に建てられることが多く、「乾(いぬい)蔵」とも言う。これは、洪水に対処するため、石垣などで高くした基壇の上に建てた蔵のことである。貴重な家財や災害備蓄品、被災後の営農用品などを保管した。舟を収めることもあった。内部は2階または3階になっていて、重要性や使用頻度を考慮して収容場所を決めていたという。基壇の高さの異なる複数の蔵を建てて同様の使い分けをする家もあった(図5)。備蓄品は、自家で使用するだけでなく周辺の小農に分け与えることもあったらしい。
代では明治18(1885)年の「枚方切れ」と呼ばれる洪水が大きかった。6月上旬から断続的に降り続いていた雨は15日夜半から豪雨となり、17日に枚方で4.25mの水位を記録した後、三矢村(現在の枚方市)で堤防が決壊
 図6 明治18年洪水を記録する石
  碑(枚方市桜町)
した。破堤箇所から流れ出た濁水は、たちまちのうちに茨田郡と讃良(さらら)郡(おおむね現在の四条畷市・大東市)を飲み込み、大阪市にまで達した。決壊箇所の修復は、折から進められていた「淀川修築工事」の資材を使用して順調に行われたが、25日から再び降り始めた雨が29日に豪雨に変わり、1回目を上回る水害を起こした。これは、宇治川・木津川・桂川などでも次々に堤防が切れるという大規模なもので、三矢村の破堤部からあふれた水は寝屋川に流れ込んで周囲を浸水させ、あたかも河内湖が出現したような有様であった。大阪市内でも天満橋を始め30余橋が流された。この水害での被災人口は27万人を越え、流出・損壊家屋は1万7,000戸を数えた。
 さらに、大正6(1917)年には対岸の大塚で堤防が切れる惨事があり、これを契機に、枚方切れで被害を受けた地域を対象に「淀川左岸水害予防組合」が設立されるに至った(8年11月)。本組合設立以前も当地には水害予防組合がいくつかあった1)が、これらを解体して広域的な組合に改変・統合したのである。先にも述べたように、堤防で囲まれた低湿地では地域間の利害が対立することが多かった。本組合の設立を記録した参考文献3には、「利害関係を異にせる地域等ありて、衆議容易に決せざりし」ところ、当時の府知事の企図にもとづき8年4月から「漸くにして其設立に
 図7 淀川左岸水害予防組合の設立記念碑、長
  柄運河に架かる避難橋の完成を機に大正14
  (1925)年に建てられた(大阪市北区長柄東)
着手するに至れり」と簡単に述べられているだけだが、これほどに広域的な組合の結成は恐らく容易ではなかったろう。知事の強いリーダーシップもさることながら、淀川を管理する内務省2)の意向が背後で働いていたのかも知れない。そして、水防長の下に水防部長18名、組頭145名、小頭246名、水防手2,460名が初代の水防団員として任命されて、実質的な活動を開始した。
 水害予防組合とは、明治23年の「水利組合条例」に基づいて設立される公共組合で、水害を受ける区域に土地・家屋・工作物を所有する者を組合員とする。組合は、組合員から選挙によって選ばれた議員により運営され、組合員から徴する組合費を主たる財源として水害の防御活動を行う。よって、組合とは、江戸時代から存在した村落等を中心とする共同体を法制化したものであるといえよう。水利組合条例の下にあったため、水防だけでなく利水に係る活動も行った。
 
時中の河川の荒廃などにより、戦後は各地で水害が相次いだ。水防組織の整備と水防活動の強化を図るため、昭和24(1949)年に水防法(昭和24年法律第193号)が制定された。さらに、33年の同法の改正(昭和33年法律第8号)で、水防に関する第一義的責任が市町村にあることを明確にし、A町の堤防が破堤すればその下流にあるB村まで被害が及ぶ場合など単独の市町村で水防責任を果たすことが困難または不適当な場合は関係する市町村が「水防事務組合」を設立しなければならないとされた。水防事務組合とは、地方自治法(昭和22年法律第67号)第284条に定める「一部事務組合」のひとつで、地方公共団体がその事務の一部(ここでは水防に関すること)を共同して処理するために設ける特別地方公共団体である。一部事務組合が設立されると、当該事務は関係地方公共団体の権能から除外され一部事務組合に移管される。
 水防法の改正により、淀川左岸水害予防組合は「淀川左岸水防事務組合」に改組された(33年12月)。新たな組合は、構成する市町村の議会の議員から選任された者がその議員となり、市町村の分担金等を財源として活動する。ここにおいて、水防活動が江戸時代から続く受益住民の共助としての性格から市町村が行う公共事業(公助)へと大きく転換したのがわかる。
 的確な水防活動を行うためには、河川管理者が有する水位等の情報を活用する必要がある。現在の淀川左岸における水防活動の流れとしては、河川管理者である国土交通省淀川河川事務所及び大阪府枚方土木事務所から、水防管理者である水防事務組合を通じて水防団の待機・準備・出動等の水防活動の必要に関する情報が伝えられる。水防団は、河川管理業務のうち、水防に係る現地実務を担うという位置づけだ。水防団の定員は、防潮筋3)を加えて4,959人。団員は非常勤の特別職地方公務員という身分で、平時はそれぞれの業務に従事し、非常時には水防団長の指示により参集して水防活動にあたる。水防活動といえば堤防に土嚢を積んだりシートを張るイメージがあるが、災害時における避難誘導・救助活動等、被害を最小化する活動の一切が含まれる。 よって、水防団では男女を問わず団員を募集している。
害の予防には河川管理者の行う施設整備と水防管理者が行う緊急対応の両方が欠かせない。が、これらに加えて住民の防災意識も重要だ。淀川は洪水の都度いくたびも改修工事が繰り返され近年では堤防決壊を経験していない。よって沿川住民の水防に関する認識の低下が否めない4)。これは水防団員の固定化と高齢化としても現れている。
 ところが、最近は雨の降り方が激しく、平成27(2015)年に鬼怒川で、令和元(2019)年に信濃川で堤防が決壊するなど、整備の進んだ一級河川でも決して安心できなくなっている。河川管理者も沿川の自治体もハザードマップを公表するなど、住民の防災意識を高める活動を行っている。
 そのひとつとして、当該地域がもともと低湿地であって浸水被害を受けやすいことを市民に啓発する取り組みがある。「門真市立歴史資料館」には田舟が展示され(図8)、収蔵庫は段蔵の外観を呈している。また、同市の北島地区は環濠集落の面影を残しており、地区を取り巻く水路を整備しつつ、舟を通すためにアーチ状になった橋や「ひなだ」と呼ばれる使い場が保存されている(図9)。また、南野口地区には、第2京阪道路の建設により水路がつけ替わったために廃止されていた「バッタリ」が復元保存されている(図10)。
 図8 門真市歴史資料館に展示する田舟  図9 水路をまたぐ橋と水を利用するための
  ひなだ(門真市北島町)
 図10 復元保存されているバッタ
  リ(門真市南野口)


                 (2021.10.05)


(謝辞) 本稿のうち、淀川左岸水防事務組合に関することについては、当該事務組合のご教示を得た。

(参考文献)
1 門真市「門真市史 第1巻」
2 木谷 幹一「享和2(1802)年の淀川点野切れについて−とくに「享和二年七月淀川洪水絵図」の製作時期と水害の長期化について−」(立命館大学歴史都市防災研究センター「京都歴史災害研究」第16号所収)
3 淀川左岸水害豫防組合「淀川左岸水害豫防組合誌」

1) 参考文献3によれば、淀川左岸水害予防組合の前身として、淀川茨田堤防・淀寝屋川二川・樟葉村・牧野村・大阪市の5つの組合があったと伝える。

2) 戦前の知事は、内務省などの中央官庁から派遣された官選知事であった。選挙で選ばれるようになったのは、昭和22(1947)年に地方自治法が成立してからのことである。

3) 昭和20(1945)年9月に大阪を襲った枕崎台風による高潮被害の脅威に鑑み、21年7月に大阪市の此花・港・大正の3区を淀川左岸水防事務務組合の区域に編入した。これにより、淀川の洪水防御を行う従来の区域を「淀川筋」、新たに編入された区域を「防潮筋」と呼ぶようになった。

4) 水害予防組合の頃は組合費の納入や議員の選挙を通じて住民の水防への関心は高くならざるを得なかったが、これが水防事務組合に変じて議会・行政に任せてしまい勝ちになったことも、水防への意識の低下の遠因と思われる。